2024年9月10日火曜日

全国霊的補佐 デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)の説教

          年間第23主日

 今日のマルコによる福音書(7章31節~37節)は、耳が聞こえず舌も回らない人を、イエス様が癒されたという奇跡の話です。
 今日の福音書で、イエス様は「エッファタ」という言葉を使われました。「エッファタ」は、イエス様の母国語であるアラム語の言葉です。その意味は、「開け」ということです。福音書の中では、イエス様が話されたアラム語の言葉がそのまま伝えられています。イエス様の「エッファタ」、即ち「開け」という言葉は、なんと力強い言葉なのでしょうか。
 イエス様の言葉には閉ざされていたものを開く力がありました。これはイエス様の声を聞き従う私たちにとっても、大きな励ましであると言えるかもしれません。

 私たちは、霊的に耳が閉ざされた世界に住んでいると言えます。どういうことかと言いますと、私たちの周りには色々な声があふれていますので、神様の声が聞こえなくなっているということです。精神的に様々な不安を抱え、自宅に閉じこもった生活を送っている人も少なくありません。この状態では、自分が閉ざされているように感じるかもしれません。そのような時に、「エッファタ」、つまり「開け」と いうイエス様の力強く命じる言葉があれば、私たちを力づけてくださることでしょう。これは、大変喜ばしいことです。

 イエス様の声に耳を傾けるということは、私たちの心をイエス様に開くということです。「開け」というイエス様が命じる言葉に心を開く。それは、とても大切なことなのです。
 艱難辛苦に襲われた時、自分の思いや考えだけに心を向けると、神様の恵みの前で私たち心の扉が閉じてしまう恐れがあります。しかし、イエス様の方を向いて心を開くと、どうなるのでしょうか?そうです、神様のいつくしみと愛が私たちの心の中に入ってくるのです。

 神様が私たちをどれほど愛し、いつくしんでくださっているかということを忘れないようにしましょう。
 イエス様の励ましの言葉である「エッファタ(開け)」という言葉を信頼して、私たちが毎日、少しでも自分の心を開いて歩んでいけますように。また、日常生活を送りながら、いつでも神様の声が聞こえてくるように、神様への憧れを持てますように。そうすることによって、神様の豊かな恵みが私たちの内に、常に入ってくることでしょう。


2024年9月7日土曜日

全国霊的補佐 デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)の説教

          年間第22主日

 今日のミサの御言葉は、神の掟に忠実に従うよう私たちに勧めています。旧約聖書には、主がイスラエル民に与えた偉大な賜物である「律法」が記されています。神の戒め、つまり律法はイスラエル民の誇りであり、喜びでした。
 神は言われます。「あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい。」これは非常に貴重で完全な律法を説明される神である主の声です。これこそが律法の栄光です。これは、この律法を受け入れたすべての国民の中から選ばれたイスラエル民の特権です。詩篇の作者であるダビデ王は、詩篇の中で律法を賞賛し、昼も夜も律法を黙想することについてよく語っています。
 旧約聖書の預言者たちは、律法は神ご自身の心と最も深い意図に従って神の民を形作る美しいものであると述べています。政治的な意味では、法は社会的な権力の表現であり、国家を形成する手段なのです。

 新約聖書では、イエス様が善良なユダヤ人であり、律法に対して厳粛な敬意を抱いていることがわかります。イエス様は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するために来たのではなく、完成するためである」(マタイ5章17節)と言われました。
 実は 、マタイによる福音書では、イエス様は新しいモーセ、つまり新しい律法を与える者として描かれています。マタイによる福音書(マタイ7章)には、手を洗うことに加え、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることが数多く書かれています。ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守っていました。

 これら言い伝えとは一体何でしょうか?それは律法の核心でも、神の戒めでも、神の心の中心表現でもありません。これらはすべて、律法を支え、律法がもたらす習慣、行動、人間の伝統です。とはいえ、それらが悪いと言っているわけではありません。適切で自然なものだということです。

 木を例に挙げて、考えてみましょう。今の季節の木を見ると、木の葉は緑にあふれ、木々の豊かさを表しているようです。その後季節が移るにつれ、それらの木の葉は少しずつ色を変え、若い葉に置き換えられていきます。そして、この新しい葉は、かつて古い葉がそうだったように豊かさを表しています。
 では、木の本質とは何でしょうか?私たちはしばしば木の葉を木の本質だと思いがちですが、残念ながら毎年置き換わってしまう木の葉は、そうだとは言い難いようです。一方木の幹は、季節が過ぎてもその場に残る木の本質のようなものだと考えられます。

 話を元にもどしましょう。宗教の核、つまり本質とは何でしょうか?それは律法です。律法は、しばしば多くの儀式の慣行に囲まれています。木の例に当てはめますと、律法が木の幹、儀式は木の葉だということができるでしょう。

 今日の福音書では、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、イエス様の弟子たちの中に洗わない汚れた手で食事をする者がいるのを見て、イエス様と弟子たちがこうした儀式、つまり小さな習慣をすべて守っていないことに不満を述べています。
 それに対してイエス様は、預言者イザヤの言葉を引用し、このように答えられました。「彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
 次にイエス様は、手の清めの問題を心の中のお話に置き換えました。つまり、イエス様は「心はどこにあるのか」という根本的な質問をされているのです。

 私たちが祈りをするとき、心はどこにあるのでしょうか?私たちが教会に来るとき、心はどこにあるのでしょうか?私たちが宣教活動をするとき、心はどこにあるのでしょうか?
 イエス様は、私たちの生活の宗教的側面において心はどこにあるのかを尋ねるほかに、さらに深く掘り下げて、「心はどれほど清いのか」と尋ねられます。
 イエス様はこう言われました。
 「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
 そうなのです。心の中にあるものから、私たちの考え、言葉、行動などが流れ出てきます。つまり、私たちの考え、言葉、行動は心の状態を反映しているのです。ですから、聖体拝領の前に手を消毒するだけでなく、心も清めなければなりません。

 聖アウグスティヌスは、私たちに次のような深い言葉を与えてくださいました。
「主よ、あなたが我々をお造りになりました。あなたが我々の心をお造りなりました。ゆえに我々の心は、あなたの内に憩うまで休まらない」

 祈りと礼拝の中で、イエス様の御心に私たちの心を置きましょう。私たちの心を罪から清め、平安を与えてくださるようイエス様に願いましょう。
 平和な心とは、清らかで、愛で満たされている心です。私たちの心がイエス様の御心のようになり、私たちの考え、言葉、行動を通して、他の人がイエス様の愛に満ちた御心を知ることができますように。