在世フランシスコ会の大まかな歴史
初期の在世フランシスコ会
アシジの聖フランシスコは1208年頃、福音に従って生きるよう神から導かれました。やがて仲間ができ、男性の修道会として1209年に小さき兄弟会(現在は三つの会)、女性の修道会として1212年に聖クララ会が生まれます。
当時、教会の中には、「回心を生きる人々」と呼ばれる人がいました。その人々のうち、既婚者の中にも、聖フランシスコの精神に従って福音を深く生きることを望む人々がおり、こうした動きが在世フランシスコ会へと発展します。 1211年には存在したとも言われますが、年代ははっきりしません。『メモリアレ・プロポジティ』と呼ばれる最初の会則は、教皇庁によって1221年に作成されました。
初期の会員は、福音を生きるよう努め、教会で行われる秘跡、聖務日課、葬儀に積極的に参加しました。会員たちは皆、「兄弟会」と呼ばれる地域のグループに所属しました。司教との結びつきを保ち、町の法廷での裁きを免除され、教会裁判所によってのみ裁かれました。町の君主に対して従順の誓いを立てず、良心に基づいて兵役を避け、平和をもたらすよう努めました。すべての人に平等に接し、質素に生活し、貧しい人や巡礼者などに生活必需品や衣服を分けました。親族の争いを避けるために誓約の前には遺言を残し、財産について人々が争っているときには和解できるよう支えました。
13世紀から15世紀まで
小さき兄弟会と在世フランシスコ会は、様々な形で関わりました。在世フランシスコ会が良い活動を広める中で、小さき兄弟会への入会希望者も増えました。
難しさも生じはじめました。在世フランシスコ会は教皇庁から特権を受け、市民としての義務を免除されていました。そのため、教皇庁の権力と町や司教の権力との間、教皇庁側と神聖ローマ皇帝側との間に緊張感が生じました。教会と市民の権力から在世フランシスコ会を守ることは、小さき兄弟会には不可能でした。在世フランシスコ会の中で争いが生じた場合、小さき兄弟会会員が和解に導くことは非常に困難でした。小さき兄弟会の中にも、在世フランシスコ会会員への訪問と称して、不賢明な関わりを持つ人がいました。
こうした中、教皇庁の指導により、司教たちが視察者を通して在世フランシスコ会を監督し、在世フランシスコ会会員は教区の管理者に財政面で協力することになりました。 1289年には、二つ目の会則『スプラ・モンテム』が認可されました。この会則によって、小さき兄弟会会員が在世フランシスコ会の視察者と養成担当者を務めるようになりました。この会則は、600年間用いられます。
13世紀から14世紀の教会には、貧しさを強調しつつ福音を生きることを目指しながらも、教会の指導を受け入れず、異端とされる人々が生じました。在世フランシスコ会は質素な身なりで福音を生きようとしていたので、司教の中には在世フランシスコ会会員を異端者とする人もいました。そこで、教皇たちが在世フランシスコ会会員を守るようになります。
在世フランシスコ会の兄弟会には、ハンセン病、ペスト、チフスなど重い病気にかかった人々の世話をしたり、貧しい人々を支えたり、無償の学校も開く場所もありました。これらの活動の資金は、在世フランシスコ会会員と市民の寄付によって支えられていました。 15世紀に小さき兄弟会の中で改革運動が生じて巡回説教が非常に活発になると、在世フランシスコ会もさらに広まりました。
16世紀から18世紀まで
16世紀には、プロテスタントによって文化、社会、政治に大きな変化が生じ、教会が分裂していきました。小さき兄弟会も、1517年にオブセルヴァンテス派とコンベンツアル派に大きく分かれ、その後にカプチン派も生じました。 1521年には、フランシスカンの中に律修第三会も生じました。律修第三会は、聖フランシスコの精神に基づきながら在世で共同体生活を営むグループです。在世フランシスコ会は、小さき兄弟会や律修第三会のそれぞれの派に従って分裂するー方、プロテスタントが広まった地域では迫害されました。
教会の刷新が望まれる中で、在世フランシスコ会の刷新も試みられました。聖体、十字架への信心が活発になり、内的生活を深める人々も生じました。王侯、貴族、聖職者、政治家の他、著名な知識人や芸術家が数多く入会しました。 17世紀には、病院、食糧庫、薬局などを確保するため、また医師、弁護士、公証人を通して貧しい人々を助けるため、在世フランシスコ会の裕福な人々が大いに協力しました。
その反面、在世フランシスコ会に入ることが流行のようになったり、貧しい人々の入会を拒否したりする兄弟会も生じてしまいました。在世フランシスコ会のことを「在世で福音を深く生きる会」というより「信心会」のように捉えている人々もたくさんいました。
18世紀後半になると、オーストリア皇帝が専制政治を行い、自分に従わない修道会と在世フランシスコ会を廃止させます。フランスでは、すべての聖職者、修道者に圧力がかけられるようになり、在世フランシスコ会も同様に扱われ、会員の財産が国有化されました。フランス国家の法律に従うよりも教皇に従順を誓うことによって、殉教する人々も生じました。ナポレオンも在世フランシスコ会を廃止しました。
19世紀
19世紀になると、イタリアとスペインでもオーストリアなどの影響を受け、厳しい条件を満たさない修道会や修道院が次々と廃止されていきます。在世フランシスコ会の兄弟会も廃止や迫害の対象となりました。
一方、在世フランシスコ会に所属する司祭たちの中には、教会での司牧活動を通して人々に霊的に良い影響を与える司祭もいました。祈りの場所、児童養護施設、貧しい人々を支援する場所などを設立したり、労働組合に対して福音宣教をしたりするなど、社会において人々を助ける活動をする司祭たちもいました。
教皇レオ十三世は、在世フランシスコ会会員でした。彼は、労働を適切に評価し、謙遜で率直な兄弟的交わりを広め、平和を促進し、社会を改革する上で、在世フランシスコ会が非常に有益であると考えました。
こうして教皇レオ十三世は、1883年に三つ目の会則『ミゼリコルス・デイ・フィリウス』を認可します。二つ目の会則を比べると、14歳から入会を可能とすることで若者を増やそうとし、禁欲についての規定を簡素化しています。また、「武器を持たない」という規定を廃止し、軍国主義の国家でも生活できるように配慮されています。在世フランシスコ会への入会をさらに促進するために、数多くの免償を用意しました。
しかし、この会則では、在世フランシスコ会の本質をまだ表現できていませんでした。フランシスカンでない小教区にも在世フランシスコ会の兄弟会が広がったため、第一会は、司法権や教区聖職者との関係について問題を抱えました。
20世紀から21世紀
在世フランシスコ会は、社会において様々な活動を展開するー方、自分たちの会の本質を表現できていませんでした。そのため、「在世で福音を生きる会」というより信心会のような活動になったり、他の社会的活動のグループ(カトリック・アクションなど)に変えられたりしました。
二度の大戦を経た後、1946年に4人の総補佐役による国際評議会が設立されます。この評議会では、次のような意見が出されました。つまり、三つ目の会則があまりにも一般的な表現で記されているので、人によって異なる様々な解釈がなされており、会則に対する権威ある適切な解釈が必要とされている、ということです。また、1917年に出された教会法典と整合性を保つ必要性も指摘されました。そこで、会則を変更するのではなく、幅広い領域を扱った会憲が1957年に作成されました。
その後、教会では第二バチカン公会議が開催され、信徒の使命の持つ豊かな側面が示されました。これを受けて、もっと福音に基づく積極的でフランシスカン的な刷新を目指し、会則、会憲、儀式書を改訂する作業がさっそくはじまりました。在世フランシスコ会の総会議、会合を開き、フランシスカンや教会法の専門家の協力も得て、会則の草稿を作成していきました。それまでの長い歴史において在世フランシスコ会は、第一会と律修第三会のそれぞれの派に分裂してしまっていました。しかし、在世フランシスコ会が他のフランシスカンの豊かな交わりを持ちながらも、特別の使命を持って一つの会として自律することを、会則改訂作業に携わった第一会会員も律修第三会会員も在世フランシスコ会会員も望みました。
こうして1978年に聖パウロ六世教皇は、四つ目の会則、つまり今わたしたちが用いている会則『セラフィクス・パトリアルカ』を認可しました。聖フランシスコの精神に基づいて在世で福音を生きる豊かな視点が示されました。これを受けて、会憲改訂作業も進められ、2001年に認可されました。
現代の会則と会憲は、在世フランシスコ会の非常に豊かな理想を示しています。第一会、律修第三会、在世フランシスコ会自身も、この深い理想を深く受けとめながら、刻々と変化する世界において時のしるしを感じ取り、神からの豊かな招きに応えるよう求められています。
聖人たち
「回心を生きる兄弟姉妹たち」と呼ばれた時代から今日にいたるまで、在世フランシスコ会には、数多くの聖人、福者がいます。一時期在世フランシスコ会に所属した後に他の修道会の創立者や会員となった人々も含めると、聖人は60人を超え、福者は110人を超えます。
たとえば、聖エリザベト(ハンガリー)、聖ルイ九世(フランス国王)、聖マルガリタ(コルトーナ)、聖アンジェラ(フォリーニョ)、聖ビルジッタ(スウェーデン)、聖カタリナ(ジェノヴァ)、聖トマス・モア、聖ヨハネ・ボスコ、聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネ、聖ヨハネ二十三世などがいます。日本二十六聖人のうち17人は在世フランシスコ会会員だったと言われます。日本の福者殉教者の中にもたくさんいます。
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