2024年4月25日木曜日

デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)の説教

       復活節の第四主日


 復活節の第 4 主日は伝統的に「善き羊飼い主日や良い牧者の主日」として知られています。皆さん、ペットを飼っている方はいますか? 犬、猫、金魚、ウサギ、カメ、馬などのペットを飼っていますか? 私はインドの家では犬と猫を飼っていました。鶏、ウサギ、水牛、牛、子牛もいました。羊をペットとして飼っている方はいますか? かつて、我が家にも羊がいました。

 今日の福音書は羊の世話をする良い羊飼いの話です。ペットを飼っている人なら誰でもその気持ちはよくわかります。それは羊飼いが羊の世話をするときに感じるのと同じ気持ちです。今日の福音書でイエス様は「わたしは良い羊飼いである」と言われます。キリストが良い羊飼いなら、羊は誰でしょうか? 私たちは皆羊です。それでは、羊が羊飼いの声を聞き、羊飼いに従うことが義務であるならば、私たちは何をすべきでしょうか? イエス様の声に耳を傾け、良い羊のようにイエス様に従うべきですね。 もしイエス様が良い羊飼いであるなら、私たちも同じように良い羊飼いになるよう求められています。良い羊飼いであるということは、羊を飼わなければならないという意味ではありません。私たちの周りを見渡せば、世話ができる羊がたくさんいるでしょう。 配偶者、子供、両親、祖父母、兄弟姉妹、友人、そして近所の人たち、そして私たちの知らないホームレスの人たちです。これらの人たちは皆、私たちが世話できる羊です。これらの人たちは皆、羊飼いの群れの一員です。私たちは皆、良き羊飼いとなるよう呼びかけられています。

 良い羊飼いは何をしますか? イエス様は福音の中で私たちに何を語られていますか? オオカミが来ると羊飼いは逃げるでしょうか? いいえ、羊飼いは羊の番をするためにそこにいます。家族、友人、職場の仲間が問題を抱えて相談に来ると、私たちはそれらを無視して自分の問題を心配する傾向があるのは本当ではないでしょうか。良い羊飼いになるのは簡単な義務ではありません。

 今日の第一朗読でペトロは、家を建てる者に捨てられた石が「隅の親石」になったと語ります。ペトロは一度ならず二度ならず三度もイエス様を拒否した人です。状況が厳しくなってくると、ペトロは怖くなって隅の石を拒否してしまいました。しかし、今日の第一朗読で、ペトロは聖霊に満たされてイエス様の救いのメッセージを宣べ伝え始めました。 かつては恐れていたペトロが、今では聖霊の勇気をもって人々にキリストの福音を宣べ伝えています。したがって、教会は伝統的に、イエス様が自分の群れを託した人物として彼を見てきました。

 私たちは福音の中で、良い羊飼いとは給料のために働く人ではなく、羊のために自分の命を犠牲にして羊を守る人であることを学びます。そして実際、これこそがキリストが私たちのためにしてくださったことであり、これからもキリストが教会生活の中で私たちのために命を与えてくださることなのです。キリストは神の御言葉を通して私たちに語られるお方であり、秘跡において私たちの中に働くお方です。私たちはいつもキリストの声に耳を傾け、キリストに常に従うように努めましょう。

2024年3月30日土曜日

主のご復活おめでとうございます

  兄弟姉妹の皆様

 主のご復活おめでとうございます。
   ともに喜びましょう。

 「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコ16・7)

 国際の総長より「在世フランシスコ会の皆様へ」、イースターカードが届きましたので掲載します。
          日本在世フランシスコ会 全国兄弟会
                    会長 藤田重和

2024年3月10日日曜日

デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)の説教

  3月10日(日)
 四旬節の第四主日

 四旬節第四主日の福音書には、イエスとニコデモの会話が記されています。ニコデモはファリサイ派でありユダヤ人の指導者です。彼は律法と預言者に関してよく知っていました。彼は明らかにイエスのことに関心を持っていました。彼は、神が共におられるのでなければ、イエス様はしるし(奇跡)を行うことはできないと信じていました。それで、彼はユダヤ人を恐れて、さまざまな質問に対する答えを求めて、夜中にイエス様のところにやって来ました。
 イエスはニコデモにこう言われます。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」 ユダヤ人の指導者であるニコデモは、民数記21章からのこの言葉を確かに知っていたはずです。イスラエルの民は荒れ野で神とモーセに逆らったとき、神は炎の蛇を民に向かって送られました。蛇はイスラエルの民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出ました。民はモーセのところに来て自分の罪を認めて、蛇を取り除いてくれるようにと願いました。モーセは神に祈ったとき、神の命令によって、青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げました。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得ました。

 なぜ自分自身の問題を仰ぐと癒されるのでしょうか? 誰かが恐怖に苦しんでいるなら、それはその人の人生に害を及ぼすに違いありません。主は何と言われるのでしょうか? 恐れるものから逃げるのではく、むしろ恐れることを仰ぐほうがよいでしょう。そうすれば、私たちはその恐怖を克服することができます。仏教の伝統にこんな面白い言葉があります。「恐れの気持ちをお茶に招きましょう。」 “Invite your fear in for tea.” これらの考えは、失敗への恐怖、病気への恐怖、死ぬことへの恐怖、友人を失うことへの恐怖などです。私たちはそれらの恐怖に共感し、その恐怖をお茶に招待しながら、「ようこそ、失敗への恐怖、お茶を一杯どうぞ」と言えば、私たちはその恐怖から効果的に距離を置くことができ、その恐怖を乗り越えることができるでしょう。

 ここでも同じようなことが言えます。 「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」人の子も上げられねばならないというのは十字架のことです。イエスは地上から上げられ、十字架の上にさらされました。そしてその十字架上のイエスを見ると私たちは癒されます。

 イエス様の十字架に何が見えますか? それは私たちを絶対に怖がらせるものです。 十字架上では、残虐さ、裏切り、暴力、侮辱、弟子たちに見捨てられたこと、肉体的な苦しみ、精神的な苦しみ、霊的な苦しみが見られます。これらは私たちが恐れていることです。

   何をしてはいけないのでしょうか? 私たちは日常生活で直面する恐怖から逃げたり隠れたりするのではなく、むしろその恐怖に目を向けなければなりません。人の子が上げられるとき、彼を見て信じる者にはすべて永遠の命が与えられます。十字架において、私たちはあらゆる苦しみと恐れを見るのです。しかし、イエス様が言われる言葉は、私たちを力づけてくださいます。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

 だからこそ、私たちは十字架において救いを見出すのです。救いとは勝利と癒しを意味します。どうすれば自分の恐怖心を癒すことができますか? それに目を向けるときです。同じように、十字架に上げられたイエス様を仰ぐとき、私たちは癒しを体験し、恐怖を克服したことが分かります。


2024年2月11日日曜日

デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)の説教

2024年2月11日
 年間第6主日

          教会の声はイエス様の声です ― 「よろしい。清くなれ」

 年間第6主日の福音書は、イエス様が重い皮膚病の人を癒す素晴らしい奇跡物語です。今日の福音書(マルコ1章40節-45節)をよく理解するために、レビ記13章と14章を読む必要があります。レビ記は重い皮膚に関する規定について語ります。聖書の世界でこの病気にかかった人々が受けた苦しみは、レビ記の規定から想像できます。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ13章45-46節)。古代イスラエル人は体の外側にあるもの、即ち皮膚病のことについて非常に心配をしていました。当時、重い皮膚病が伝染病であると思われていましたので、重い皮膚病の患者は社会から離れて住んでいました。
 古代イスラエルで重い皮膚にかかっている人の場合、誰かが彼に近付いた際は、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と叫ぶ必要がありました。さらに、彼は社会や共同体から疎外されていました。おそらく疎外されることは耐え難いことであり、共同体とともに行う、神への礼拝にも与ることができませんでした。古代イスラエル人によると、重い皮膚病は神からの呪われたという概念でした。レビ記のこの規定が今日の福音の奇跡物語の背景です。

 重い皮膚病の人はイエス様のところに来てひざまずいて、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」と願いました。古代イスラエルの規定によると、重い皮膚病の人はまず神殿に行って、祭司に見せるべきでした。しかし、この人は神殿に行かないで、直接イエス様のところに行きます。ここで、イエス様は、マタイ12章6節に、自分についてこのように言われたことを思い出しましょう。「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。」 神殿は神性と人間性が一つになる場です。イエス様のところに来た重い皮膚病の人は、イエス様において神性と人間性が一つになっていると信じます。イエス様こそがその聖なる場であり、聖なる臨在であると見極めます。レビ記で祭司は、その人が汚れているか汚れていないかとその体の患部を調べていました。しかし、この重い皮膚病の人は、イエス様だけが彼を清め、癒す権威と力を持っていらっしゃると信じます。彼はイエス様との距離を置かないで、また「わたしは汚れた者です。汚れた者です」とも叫ばないで、直接イエス様と接触したので、とんでもない過ちを犯したと思っています。その人はイエス様を感染の危険にさらしたに相違ないのです。

 皆さん、ある時、私たちは罪を犯したゆえに、心が汚くて神様が臨在される中に入るのは、ふさわしくない者であると思うかもしれません。罪を犯した結果、イエス様とその共同体にかかわる価値を失ったと思ったりするかもしれません。このような考え方は間違っていますね。今日の福音書を読めば、私たちの思いは変わるでしょう。この重い皮膚病の人は、正しい霊的な態度を表します。重い皮膚病の人はイエス様との出会いによってイエス様を汚したりはしません。彼はイエス様を普通の人間と見なさないで、真の神と見なします。彼は「イエス様との出会いが私を清くするだろう」と信じます。これが私たちが、持つべき態度ではないでしょうか。
 「私はひどい罪を犯したので、神様が絶対赦して下さらないだろう」と、このように考えることは本当に悲しいことです。なぜなら、私たちは神を汚すのではなく、神との関りによって清められ癒やされるのです。重い皮膚病の人が信頼と希望を持っていたように私たちも信頼と希望を持ちましょう。主との素晴らしい出会いの瞬間はどれほど美しいでしょうか! 重い皮膚病のような人や病気の人が私たちのところに来たとき、古代イスラエル人が振る舞ったように戸惑うかもしれません。しかし、イエス様は戸惑うどころか、イエス様は深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われました。これが教会の秘跡の精神です。「よろしい。清くなれ」というのは教会の声なのです。誰かが洗礼や赦しの秘跡、ご聖体の秘跡や病者の塗油の秘跡を望んだ場合、その人をいつも受け入れて「よろしい。清くなれ」というイエス様の声を通してその人の心を癒しましょう。
 イエス様がその人に触れた時、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなりました。彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めました。これは良い知らせを伝えること、福音宣教と呼ばれています。イエス様に癒されたことを全ての人に言い広めることは、真の福音宣教です。真の福音宣教者のように「イエス様は私に触れました。私を赦してくださいました。私は主との出会いによって癒されました。あなたたちも同じような体験をしてください」と皆さんに伝えましょう。


2024年1月29日月曜日

デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)の説教

        2024年1月28日
         年間第4主日

 今日の第一朗読は、トーラー即ちペンタチューク(モーセ五書)の最後の本である申命記からです。 今日の第一朗読(申命記18:15-20)に記録されているモーセの話は、非常に興味深いです。モーセは言います。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」なぜこれは興味深い箇所なのでしょうか?モーセは旧約聖書の最も偉大な人物であり、燃える柴の中から神の声を聞き、その通りに従った方です。また、イスラエルの民を解放するために神に召され、砂漠を通ってイスラエルの民を約束の地へ導いた人です。神から十戒を受けて、神と顔を合わせて友人のように話したモーセは、イスラエルの中で最高の権威を持っていた人物でした。神がモーセを通して律法をお与えたになったので、モーセは唯一の権威のもととなったわけです。 それなら、なぜモーセは「神なる主はわたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」と言ったのでしょうか。 モーセのこの教えがイスラエル人の中で不安をもたらします。 イスラエル人は、人々が従うべきこの偉大な人物は誰なのか疑問に思いました。イスラエルではイザヤ、エレミヤ、エゼキエル、などの預言者が誕生していたので、人々はモーセが話していたのは「おそらく、その人たちの一人ではないだろうか」と思ったに違いありません。

 今日の福音書を読めば、モーセの予言に関してのことがよく理解できると思います。(マルコ1;21-28)イエスは、安息日にカファルナウムの会堂(シナゴーグ)に入って教えていました。 通常、当時の律法学者たちは、モーセや預言者が教えたのと同じような方法で教えていました。 しかし、イエスは当時の律法学者と異なり、明らかに自分自身の新しい方法で教えられていました。 人々はイエス様の教えを聞いて驚きました。なぜなら、イエス様は権威をもって教え、奇跡を行っておられました。神と顔を合わせ、友人のように話したモーセ以外に、誰がそのような権威をもって教えることができたのでしょうか?

 ここで何が起こったのでしょうか。この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫び始めます。イエス様が最初に出会った汚れた霊に取りつかれた人は、会堂、即ち神を礼拝する場所にいました。言い換えれば、最初の悪霊が教会の中に出たと言えます。多くの人は教会の外に神の敵である悪魔がいると思います。しかし敵は教会の中から生まれるに違いないのです。教会は神の共同体なのに、悪魔が教会の中から分裂の力を生じさせます。汚れた霊に取りつかれた人は「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」一人でいるのに、まるで複数の人のように話している。それは悪魔的です。悪魔的というのは、散らかすこと、分裂することです。私たちは邪悪な自己中心の生活を送ると、周りの人々の間に分裂を引き起こします。神のご意思に反するものである分裂、憎しみ、暴力、復讐が生じるでしょう。

 イエス様は汚れた霊に取りつかれた男に何と言われたでしょうか? 「黙れ。この人から出て行け」。その時、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行きました。この奇跡を行ったとき、イエス様はモーセのように振舞うことはされませんでした。むしろ、イエス様は自分自身の権威で汚れた霊に命じ、悪霊を追い払いました。皆、イエス様の力に驚いて、「これはいったい何か?」とお互いに尋ねました。「権威のある新しい教えだ。汚れた霊でも、その言うことを聴く。」 イエス様は分裂された共同体を癒してくださる神です。モーセが預言したように 「わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」モーセよりも偉大な方はイエス・キリストです。イエス様を信じ、イエス様を受け入れることこそが、キリスト教の信仰です。そのイエス様は主である神です。いつもイエス様の御心に従うことができますように、聖霊の導きと照らしを祈り求めましょう。


Our first reading is from the book of Deuteronomy, the last book of the Torah or the Pentateuch. The one of his speeches recorded here in Deuteronomy chapter 18:15-20, is extremely interesting. “A prophet like me, will the LORD, your God, raise up for you from among your own kindred; that is the one to whom you shall listen.” Why is it a peculiar passage? The speaker here is Moses. Moses is the greatest figure in the Old Testament; Moses is the one to whom God spoke from the burning bush; Moses who was called by God to liberate the people of Israel; Moses who led the Israelites across the desert to Mount Sinai; Moses who received from God Himself the 10 commandments; Moses who saw God face to face and talked to Him as his actual friend. If God has given the Torah (the Law) to Moses, then from Moses, the sole authority is derived. Whenever a Scribe or a Rabbi teaches within the Israelite tradition, he is appealing finally to the great authority of Moses. If the authority is derived from Moses, why he must say, “A prophet like me, God will raise up and to Him you shall listen.” This teaching of Moses causes anxiety among the Israelites. Who would be that person, that is greater than Moses? Every time, when the prophets arose like Isaiah, Jeremiah, Ezekiel, etc., people must have thought that, ‘maybe he is the one’ that Moses talked about.
 If we read today’s Gospel (Mk 1:21-28), then we will be able to understand the Moses’ prediction about the prophet greater than him. We see that Jesus is teaching and preaching in the Synagogue. Usually, Teachers of the law and Rabbis of the Old Testament were teaching in the style of former Prophets and Rabbis. But Jesus was preaching the Word of God obviously in a different way. The people were astonished at His teaching. For, He taught them as one having the authority. Who could possibly teach with that kind of Authority, if he is not the one who is greater than Moses who saw God face to face and talked to him as his friend?
 Let’s see what happens here. There emerges in the Synagogue, a man with the unclean spirit. The first demon that Jesus comes across, is in the Synagogue (a house of worship). In other word, we can say that the first demon comes up in the Church. We think that there must be a great enemy of the church outside. No, it is from within the church, that there is dark and negative divisive spirit arises.
 But the man with unclean spirit cries out, “What have you to do with us, Jesus of Nazareth? Have you come to destroy us? “A single person speaks as if he is plural. That is diabolic. Diabolic means, to scatter, to divide. He is divided within oneself. When we live in divided or diabolic self, it gives rise to division all around it. All the divisions, hatred, violence, revenge that emerge against God’s creation.
 What did Jesus say? “Quiet, come out of him.” And with that the demon left him. Here, Jesus is not appealing to Moses. With his own voice he commands him and the demon leaves. All were amazed at his teaching and asked one another, “what is this?” a new teaching with authority. He commands even the unclean spirit and they obey him. Jesus is God himself healing his divided creation. As Moses predicted; “A prophet like me, will the LORD, your God, raise up for us”, then we must listen to him. The divinity of Jesus is revealed in the authority by which he speaks. Believing in Jesus and accepting Him as our Lord God is what Christianity is all about. Let us pray for the guidance of the Holy Spirit so that we can always listen to the words of our Lord Jesus and follow His will.

2024年1月23日火曜日

デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)の説教

        2024年1月21日

    年間第三主日 (神のことばの主日)

        預言者 ヨナ

 年間の第三主日の第一朗読は、預言者ヨナの使命に関することです。
 「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行ってこのことを呼びかけよ。彼らの悪は私の前に届いている。』」聖書の他の預言者のように、ヨナも神の声を聴きました。おそらく私たちにも家族やら友人やら社会などの声が聞こえるかもしれません。それらの声は私たちが何を考え、何をするかによって決定される声です。しかし、神の声は、神が私に何を望んでおられるかということです。  預言者ヨナは「ニネベに行きなさい」と神の声を聴いた時、非常に恐れました。悔い改めを告げるためにニネベに行くことは命を懸けるほどの危険な使命でした。ニネベの人たちは正しい道から外れているので、悔い改めを宣言しなさいという神の命令でした。それがヨナに与えられた神からの使命だったわけです。

 トマス・マートンは次のように述べています。「二つの選択肢に直面していて、そのうちの一つが難しい場合、難しい方が神の意志である可能性が高いです。」それは極めて挑戦的です。ヨナはニネベに行きなさいと神様に言われたけれども、彼はニネベから非常に遠いところであるタルシスへ出発します。彼はニネベに向かう代わりに反対の方向に向かって、できるだけ遠いところに逃げるように計画します。ヨナは多くの人々とともに出発し、タルシス行きの船に乗り込みます。そして、嵐がやってきます。古代イスラエルにとって、海の嵐は何か負の象徴でした。嵐は神の意図に反する印と古代イスラエル人の信念でした。ですから、嵐はヨナのみならず、彼とともに船に乗っている人々をも脅かします。神の意志に抵抗するとき、私たちのうちに嵐が引き起こされ、私たちの周りの人々にもその影響を及ぼすわけです。なぜなら、私たちはみんなお互いにつながっているからです。 私たちは神のご意思やご計画に抵抗するとき、それは私達だけではなく、神のほうに近づく人々にも問題を引き起こします。

 ヨナは神の計画に抵抗したので、問題になったと気づいたとき、人々に「私の手足をとらえて海にほうり込むがよい」と言いました。彼らがヨナの手足を捕らえて海にほうり込むと、荒れ狂っていた海は静まりました。そして、その瞬間、神はヨナを飲み込むために大きな魚を送られます。そして三日間、彼は魚の腹の中に住んでいました。私たちは神の現存から逃れることはできません。 詩編139:8-9 にはこのように語られています。「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにいまし、御手をもって私を導き、右の御手をもって私をとらえて下さる。」それはヨナが気づいたことです。全てのものは神の摂理のもとにあります。  ヨナが魚に飲み込まれていることはもちろんネガティヴのことです。ヨナは三日間魚の中に住むように拘束されています。ヨナは今魚の腹にいるので、神のご意志に従うように鍛錬されています。魚の腹の中からヨナは「苦難の中で私はあなたに叫びます」と祈ります。私たちはしばしば、このような状態に陥る時もあります。魚の中にいる拘束状態を私たちの人生に当てはめると、それはうつ病、不安、深い欲求不満のことかもしれません。人生が思った通りにならなかったとき、このような拘束を感じるかもしれません。そのとき、信仰を持って祈ったら、神様が私たちの祈りを必ず聞いてくださいます。

 ヨナは三日三晩、絶え間なく祈リました。神は魚にお命じになったので、魚はヨナを陸に吐き出しました。ヨナがニネベに着いたとき、彼は直ちに神の使命を引き受けます。ニネベの人々はヨナの説教を聞いて神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高いものも低いものも身に粗布をまといました。その知らせがニネベの王に届き、王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座りました。気が進まない預言者としてのヨナは、今や神の赦しをもたらす説教者になります。私たちは誰に信頼しますか?私たちは誰の声を聴いていますか?誰に従っていますか?あなたの自分の「意志」ですか?あなたの周りの人々の「意志」ですか?または神の「意志」ですか?ニネベ人々は悔い改めを求めました。  様々な方法で生きている今日の私たちの世俗的な社会は、神に対して無関心になっています。 今のところだけかもしれませんが、神は使命のためにたくさんの「ヨナ」を育てています。あなたもその一人かもしれません。神が悔い改めのメッセージを説くためにあなたに呼びかけたら、あなたの反応はどうでしょうか?あなたが自分自身を神のご意志にゆだねたら、あなたも現在の「ヨナ」になるに違いないのです。


         Prophet Jonah

 The first reading for the 3rd Ordinary Sunday is about the Mission of the Prophet Jonah. Prophet Jonah receives a mission from God. The word of the Lord came to Jonah, son of Amittai, saying “ Arise, go to Nineveh, that great city, and call out against it, for their evil has come up before me.” Like the other biblical prophets, Jonah too heard the Voice of God. Perhaps, we might hear voices around us, like the voices of our families, friends, our culture and so on. Those are the voices that determined by what we think and what we do. But the Voice of God is, what God wants me to do? Prophet Jonah was afraid when he heard the voice of God to go on Mission. Because it was a difficult mission to go to Nineveh to preach repentance. And the command is to go into the city to proclaim repentance and to tell the people how wrong they are. That’s the mission has been given to Jonah.

 Thomas Merton says, “If you are facing two options and one of them is harder. The harder one is more likely the will of God”. It is always challenging. Jonah was told to go to Nineveh, instead he goes to Tarshish which is very far from Nineveh. He goes as far as he can in the opposite direction. In some degree, this is all of us. We know what God wants from us and we do the opposite way. We know where God wants us to go and we move into the opposite direction.

 Jonah sets out with all the people and board the ship bound for Tarshish. And the storm comes up. For ancient Israel, the stormy sea was a symbol of something negative. It stands opposed to God`s intention. So, the storm threatens not only Jonah but also all those who on board ship with him. Resisting God`s will causes storms in us and it also causes trouble for people around us. Because we are connected with each other. When I resist what God wants me to do, or what God wants me to be, it causes the trouble for me as well as for the people whom I am supposed to bring closer to God.

 When Jonah realized that he became a problem by resisting God`s plans, he said to the people “pick me up and throw me into the sea”. They threw him into the sea and the sea ceased from its raging. Then at that moment, God sends a great fish to swallow up Jonah. And then for three days he lives in the belly of the fish. We cannot run away from God. As Psalmist says: “If I ascend to heaven, you are there! If I dwell in the uttermost parts of the sea, your right hand shall hold me.” (Psalm 139:8-9) That’s what Jonah discovers. All things are under God’s providence. He is swallowed up by the fish. It is negative of course; it is constraining of Jonah to live inside of a fish for three days. As Jonah is now in the belly of fish, he is being trained and disciplined according to the Will and Purpose of God. The prayer of Jonah from inside the belly of the fish “from the depths I cry to you O lord”. Every one of us at different times, we find ourselves in this condition. We might name it as depression, anxiety, deep frustration, we fear our life is not going to be easy. We feel constrained. We can read it as, God is swallowing up our “aren’t” wills, in order to bring us back on line.

 God answers our prayers. How do we know? When the Lord spoke to the fish and spewed Jonah out upon the dry land. When Jonah comes to Nineveh, he undertakes now the Divine Mission. People of Nineveh believed God, they proclaimed the fast and everyone great and small put-on sack cloth. When the news reached to the King of Nineveh and he rose from his throne and removed his robe and covered himself with sack clothes and sat in ashes. Jonah as reluctant prophet now becomes the greatest penitential preacher. Whom do we trust? Whose voice do we listen to? Whose Will we follow? Your own “will” or the “will” of the people around you or the “Will” of God? Nineveh was called to repentance. Our secular society today, which is grown in many ways, indifference toward God. Might be the case right now, God is raising up “Jonas” for a mission. You might be one of them. If God is calling to preach repentance, what’s your reaction to His Command? If you allow yourself to be carried by the will of God, you might be the “Jonah” of present time.

2023年12月23日土曜日

フランシスカン・ベツレヘム - グレッチョ

                   Fr デソーザ・ジョンソン(OFMcap)

 今年、私たちはグレッチョのクリスマス 800 周年をお祝いします。イタリアの小さな町グレッチョには、パレスチナの小さな町ベツレヘムに似たスピリチュアルな雰囲気があります。グレッチョはフランシカン・ベツレヘムとしてよく知られています。
 1223年にアッシジの聖フランシスコが最初の飼い葉桶を作ったのはこのグレッチョです。今日、飼い葉桶(馬小屋)を作る伝統は、主の降誕をお祝いする一部となっています。アシジの聖フランシスコにとって、神の御子イエスの受肉の神秘である御降誕は、神の深い謙虚さの驚くべき出来事でした。聖フランシスコの深い憧れの一つは、御子の真の貧しさと謙虚さを自分の目で見て、経験したかったのです。
 1223年、主の降誕の祝日に、聖フランシスコは創造的な想像力で、神の御子の受肉の神秘を観想し祝うために、キリストの誕生をご聖体の祭儀の中で再現しました。 1223年に初めて飼い葉桶が作られたとき、動物の像はありませんでした。そこには牛とロバと干し草しかありませんでした。
 荘厳な聖なる夜、聖なる方であるアシジのフランシスコは素晴らしい幻を見ました。聖なる幼子が飼い葉桶に寝ていました。聖フランシスコはこの聖なる幼子を腕に抱きました。そしてその子はベツレヘムの幼子イエスでした。グレッチョは新しいベツレヘムに変わりました。

  This year we celebrate the 800th anniversary of Christmas at of Greccio. Greccio a small town of Italy has a spiritual atmosphere similar to holy town of Bethlehem. Greccio is better known as Franciscan Bethlehem.
  It was at Greccio that St. Francis of Assisi prepared the first manger (crib) in 1223. Today, the tradition of making mangers is the part of the Christmas. For St. Francis of Assisi, the Nativity of the Lord Jesus, the mystery of the Incarnation of the Son of God, was an amazing event of God's profound humility. One of St. Francis' deepest longings was to see and experience for himself the true humility of God.
  In 1223, on the Feast of the Nativity of the Lord, St. Francis used his creative imagination to recreate the Nativity scene in the celebration of the Eucharist, in order to contemplate and celebrate the mystery of the Incarnation of the Son of God. When the manger was first prepared in 1223, there were no statues. There were only cow and ass and hay.
  On the night of the solemn celebration, the Holy man of God, St. Francis had a wonderful vision. The holy child was lying in a manger. St. Francis held this holy infant in his arms. And that child was the infant Jesus of Bethlehem. Greccio turned into a new Bethlehem.
アシジの聖フランシスコ (St Francis of Assisi)
誕生Born 1181.
死去Died 1226.