日本在世フランシスコ会公式ブログ
活動テーマ 『フランシスカンの喜び』 2024年「ラ・ヴェルナのセラフィムとともに」 ―聖痕をうけて800年―
2024年11月10日日曜日
第17回「国際総会」総会始まる
総会開始ミサ後の報告について
総会開始ミサ後から行われた会議などの報告は、竹田文彦兄のFacebookで詳しくされていますので、こちらをご覧ください。
竹田文彦兄のFacebook
2024/11/10(日)
セラフィクム到着
空港でイギリス、デンマーク、ロシアからの代表と合流してタクシーで総会の会場のセラフィクムに移動。在世フランシスコ会の国際総会には100カ国以上の国からの代表が集まりますので、英語1のグループに分けられました。
2024/11/10(日)
夕方のミサから総会始まる
いよいよ夕方のミサから9日間に渡る在世フランシスコ会の総会が始まりました。(もちろん、ミサも4カ国語の混成で行われます。)以前の総会で顔見知りの方もいれば、新たに加わった顔ぶれもおります。とにかく、世界中の各所から集まった在世フランシスコ会の会員たちです。私が教えている大学の学生たちを連れて🇻🇳ベトナムに5年前にボランティア旅行した時出会った青年がベトナム兄弟会の国際評議員として参加していたのには嬉しかったとともに驚かされました。
2024年11月9日土曜日
第17回「国際総会」ローマで開催(11月9日~17日)
第17回「国際総会」ローマで開催(11月9日~17日)
「国際総会」出席のため、日本在世フランシスコ会 国際評議員 竹田文彦兄が8日に向かい、本日9日にローマに到着しました。
総会では在世会の向こう三年間の宣教・活動方針等についての多くの議題が話し合われる見込みです。実り多い総会となりますよう聖霊のお助けをお祈りください。
この総会の内容などは逐次届きますので報告して行きます。
本日到着の様子が届きましたので掲載します。
ローマに無事に到着
τ Pax et Bonum
在世フランシスコ会の総会出席のため羽田空港22:55発、🇫🇮フィンランドのヘルシンキ経由で🇮🇹イタリア・ローマまでやって来ました。ヘルシンキに約40分遅れて翌日の4:38に到着。ヘルシンキで乗り換えてローマ行き7:25発、🇮🇹ローマ、フミチノ空港に9:45に到着です。空港で同時刻帯に到着した各国の代表とともにイタリアの在世会会員が手配してくれたタクシーで総会会場のローマ市郊外のSeraphicumへ移動予定。
在世会の総会は、公用語としてイタリア語、フランス語、スペイン語、英語の四カ国語が同時通訳付きで行われます。様々な議論に加えてInstrumental Laboris と呼ばれる作業課題が与えられ、それについて総会参加者(Capitular)が話し合い、フランシスカン霊性を深めることが求められます。今回のテーマ「神は愛」について前もって総会参加者にA4用紙16枚からなる文書が配布されていましたが、それを機内では復習しました。
・神の愛とはいかなることであり、在世フランシスコ会会員のこの世における存在、アイデンティティは、この神の愛といかに関わっているのか?
・様々な仕方で急速に変わりゆく現代の状況の中で、私たちきは具体的にどのような活動が求められるのか?
単なる慈善活動やボランティアなどにはとどまらないより抜本的なアプローチが求められています。
Instrumental Laboris の最後に付けられた検討課題は、次のようなものです。
1. 在世フランシスコ会は、Order(修道会)として愛を通していかに教会を、兄弟会を、そして世界を建て直していくのか?今日、いかなる愛のメッセージを私たちは人々に伝えるのか?私たち、在世会会員は、世界と教会に何を提示出来るのか?
2. イエスとの強い結び付き無しには、私たちは、隣人たちに愛を示すことは不可能。聖フランシスコがイエスに示した深い愛を考える時、私たちはいかにしてフランシスカンの伝統から学び、神と、私たちの家族や共同体の中の隣人に対する愛を成長させることが出来るのか?
3. 兄弟会の様々なレベルにおいて、例えば養成プログラム、コミュニケーション、規則、そして兄弟姉妹間における法的、道徳的諸問題において、いかにして愛を示していくのか?フランシスカンの兄弟姉妹に対して、愛の精神をもってゆるしと正義をいかに実践していくべきか?
4. しばしば会員相互の対立を生む、在世会の運営と財政に関する問題において兄弟姉妹としてお互いに愛を維持し、協力していくためには何が必要であるのか?
5. 神と隣人に対する愛を広く描くために、在世会員一人一人が国際兄弟会に属している感覚をいかにしたら強められるか?
6. 在世会とヤング・フランシスカン、相互のメンバーが、兄弟愛と相互支援と関心をもって、一つの同じフランシスカン霊性に歩んでいくためにどのようにしたら良いか?
7. ここで言及されていないが、取り上げるべきだと思われる他の点はありますか?
8. これらのことを踏まえて向こう三年間、国際兄弟会が優先課題とすべきことは何か?
これらの課題は、国際総会で話し合われた後、在世フランシスコ会の各レベル、国ごとの兄弟会(National Fraternity)、地区兄弟会 (Regional Fraternity)、各地兄弟会 (Local Fraternity) でさらに話し合われ、具体的な兄弟会の実践に移されます。
竹田文彦
2024年9月10日火曜日
全国霊的補佐 デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)の説教
年間第23主日
今日のマルコによる福音書(7章31節~37節)は、耳が聞こえず舌も回らない人を、イエス様が癒されたという奇跡の話です。
今日の福音書で、イエス様は「エッファタ」という言葉を使われました。「エッファタ」は、イエス様の母国語であるアラム語の言葉です。その意味は、「開け」ということです。福音書の中では、イエス様が話されたアラム語の言葉がそのまま伝えられています。イエス様の「エッファタ」、即ち「開け」という言葉は、なんと力強い言葉なのでしょうか。
イエス様の言葉には閉ざされていたものを開く力がありました。これはイエス様の声を聞き従う私たちにとっても、大きな励ましであると言えるかもしれません。
私たちは、霊的に耳が閉ざされた世界に住んでいると言えます。どういうことかと言いますと、私たちの周りには色々な声があふれていますので、神様の声が聞こえなくなっているということです。精神的に様々な不安を抱え、自宅に閉じこもった生活を送っている人も少なくありません。この状態では、自分が閉ざされているように感じるかもしれません。そのような時に、「エッファタ」、つまり「開け」と いうイエス様の力強く命じる言葉があれば、私たちを力づけてくださることでしょう。これは、大変喜ばしいことです。
イエス様の声に耳を傾けるということは、私たちの心をイエス様に開くということです。「開け」というイエス様が命じる言葉に心を開く。それは、とても大切なことなのです。
艱難辛苦に襲われた時、自分の思いや考えだけに心を向けると、神様の恵みの前で私たち心の扉が閉じてしまう恐れがあります。しかし、イエス様の方を向いて心を開くと、どうなるのでしょうか?そうです、神様のいつくしみと愛が私たちの心の中に入ってくるのです。
神様が私たちをどれほど愛し、いつくしんでくださっているかということを忘れないようにしましょう。
イエス様の励ましの言葉である「エッファタ(開け)」という言葉を信頼して、私たちが毎日、少しでも自分の心を開いて歩んでいけますように。また、日常生活を送りながら、いつでも神様の声が聞こえてくるように、神様への憧れを持てますように。そうすることによって、神様の豊かな恵みが私たちの内に、常に入ってくることでしょう。
今日のマルコによる福音書(7章31節~37節)は、耳が聞こえず舌も回らない人を、イエス様が癒されたという奇跡の話です。
今日の福音書で、イエス様は「エッファタ」という言葉を使われました。「エッファタ」は、イエス様の母国語であるアラム語の言葉です。その意味は、「開け」ということです。福音書の中では、イエス様が話されたアラム語の言葉がそのまま伝えられています。イエス様の「エッファタ」、即ち「開け」という言葉は、なんと力強い言葉なのでしょうか。
イエス様の言葉には閉ざされていたものを開く力がありました。これはイエス様の声を聞き従う私たちにとっても、大きな励ましであると言えるかもしれません。
私たちは、霊的に耳が閉ざされた世界に住んでいると言えます。どういうことかと言いますと、私たちの周りには色々な声があふれていますので、神様の声が聞こえなくなっているということです。精神的に様々な不安を抱え、自宅に閉じこもった生活を送っている人も少なくありません。この状態では、自分が閉ざされているように感じるかもしれません。そのような時に、「エッファタ」、つまり「開け」と いうイエス様の力強く命じる言葉があれば、私たちを力づけてくださることでしょう。これは、大変喜ばしいことです。
イエス様の声に耳を傾けるということは、私たちの心をイエス様に開くということです。「開け」というイエス様が命じる言葉に心を開く。それは、とても大切なことなのです。
艱難辛苦に襲われた時、自分の思いや考えだけに心を向けると、神様の恵みの前で私たち心の扉が閉じてしまう恐れがあります。しかし、イエス様の方を向いて心を開くと、どうなるのでしょうか?そうです、神様のいつくしみと愛が私たちの心の中に入ってくるのです。
神様が私たちをどれほど愛し、いつくしんでくださっているかということを忘れないようにしましょう。
イエス様の励ましの言葉である「エッファタ(開け)」という言葉を信頼して、私たちが毎日、少しでも自分の心を開いて歩んでいけますように。また、日常生活を送りながら、いつでも神様の声が聞こえてくるように、神様への憧れを持てますように。そうすることによって、神様の豊かな恵みが私たちの内に、常に入ってくることでしょう。
2024年9月7日土曜日
全国霊的補佐 デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)の説教
年間第22主日
今日のミサの御言葉は、神の掟に忠実に従うよう私たちに勧めています。旧約聖書には、主がイスラエル民に与えた偉大な賜物である「律法」が記されています。神の戒め、つまり律法はイスラエル民の誇りであり、喜びでした。
神は言われます。「あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい。」これは非常に貴重で完全な律法を説明される神である主の声です。これこそが律法の栄光です。これは、この律法を受け入れたすべての国民の中から選ばれたイスラエル民の特権です。詩篇の作者であるダビデ王は、詩篇の中で律法を賞賛し、昼も夜も律法を黙想することについてよく語っています。
旧約聖書の預言者たちは、律法は神ご自身の心と最も深い意図に従って神の民を形作る美しいものであると述べています。政治的な意味では、法は社会的な権力の表現であり、国家を形成する手段なのです。
新約聖書では、イエス様が善良なユダヤ人であり、律法に対して厳粛な敬意を抱いていることがわかります。イエス様は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するために来たのではなく、完成するためである」(マタイ5章17節)と言われました。
実は 、マタイによる福音書では、イエス様は新しいモーセ、つまり新しい律法を与える者として描かれています。マタイによる福音書(マタイ7章)には、手を洗うことに加え、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることが数多く書かれています。ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守っていました。
これら言い伝えとは一体何でしょうか?それは律法の核心でも、神の戒めでも、神の心の中心表現でもありません。これらはすべて、律法を支え、律法がもたらす習慣、行動、人間の伝統です。とはいえ、それらが悪いと言っているわけではありません。適切で自然なものだということです。
木を例に挙げて、考えてみましょう。今の季節の木を見ると、木の葉は緑にあふれ、木々の豊かさを表しているようです。その後季節が移るにつれ、それらの木の葉は少しずつ色を変え、若い葉に置き換えられていきます。そして、この新しい葉は、かつて古い葉がそうだったように豊かさを表しています。
では、木の本質とは何でしょうか?私たちはしばしば木の葉を木の本質だと思いがちですが、残念ながら毎年置き換わってしまう木の葉は、そうだとは言い難いようです。一方木の幹は、季節が過ぎてもその場に残る木の本質のようなものだと考えられます。
話を元にもどしましょう。宗教の核、つまり本質とは何でしょうか?それは律法です。律法は、しばしば多くの儀式の慣行に囲まれています。木の例に当てはめますと、律法が木の幹、儀式は木の葉だということができるでしょう。
今日の福音書では、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、イエス様の弟子たちの中に洗わない汚れた手で食事をする者がいるのを見て、イエス様と弟子たちがこうした儀式、つまり小さな習慣をすべて守っていないことに不満を述べています。
それに対してイエス様は、預言者イザヤの言葉を引用し、このように答えられました。「彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
次にイエス様は、手の清めの問題を心の中のお話に置き換えました。つまり、イエス様は「心はどこにあるのか」という根本的な質問をされているのです。
私たちが祈りをするとき、心はどこにあるのでしょうか?私たちが教会に来るとき、心はどこにあるのでしょうか?私たちが宣教活動をするとき、心はどこにあるのでしょうか?
イエス様は、私たちの生活の宗教的側面において心はどこにあるのかを尋ねるほかに、さらに深く掘り下げて、「心はどれほど清いのか」と尋ねられます。
イエス様はこう言われました。
「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
そうなのです。心の中にあるものから、私たちの考え、言葉、行動などが流れ出てきます。つまり、私たちの考え、言葉、行動は心の状態を反映しているのです。ですから、聖体拝領の前に手を消毒するだけでなく、心も清めなければなりません。
聖アウグスティヌスは、私たちに次のような深い言葉を与えてくださいました。
「主よ、あなたが我々をお造りになりました。あなたが我々の心をお造りなりました。ゆえに我々の心は、あなたの内に憩うまで休まらない」
祈りと礼拝の中で、イエス様の御心に私たちの心を置きましょう。私たちの心を罪から清め、平安を与えてくださるようイエス様に願いましょう。
平和な心とは、清らかで、愛で満たされている心です。私たちの心がイエス様の御心のようになり、私たちの考え、言葉、行動を通して、他の人がイエス様の愛に満ちた御心を知ることができますように。
今日のミサの御言葉は、神の掟に忠実に従うよう私たちに勧めています。旧約聖書には、主がイスラエル民に与えた偉大な賜物である「律法」が記されています。神の戒め、つまり律法はイスラエル民の誇りであり、喜びでした。
神は言われます。「あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい。」これは非常に貴重で完全な律法を説明される神である主の声です。これこそが律法の栄光です。これは、この律法を受け入れたすべての国民の中から選ばれたイスラエル民の特権です。詩篇の作者であるダビデ王は、詩篇の中で律法を賞賛し、昼も夜も律法を黙想することについてよく語っています。
旧約聖書の預言者たちは、律法は神ご自身の心と最も深い意図に従って神の民を形作る美しいものであると述べています。政治的な意味では、法は社会的な権力の表現であり、国家を形成する手段なのです。
新約聖書では、イエス様が善良なユダヤ人であり、律法に対して厳粛な敬意を抱いていることがわかります。イエス様は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するために来たのではなく、完成するためである」(マタイ5章17節)と言われました。
実は 、マタイによる福音書では、イエス様は新しいモーセ、つまり新しい律法を与える者として描かれています。マタイによる福音書(マタイ7章)には、手を洗うことに加え、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることが数多く書かれています。ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守っていました。
これら言い伝えとは一体何でしょうか?それは律法の核心でも、神の戒めでも、神の心の中心表現でもありません。これらはすべて、律法を支え、律法がもたらす習慣、行動、人間の伝統です。とはいえ、それらが悪いと言っているわけではありません。適切で自然なものだということです。
木を例に挙げて、考えてみましょう。今の季節の木を見ると、木の葉は緑にあふれ、木々の豊かさを表しているようです。その後季節が移るにつれ、それらの木の葉は少しずつ色を変え、若い葉に置き換えられていきます。そして、この新しい葉は、かつて古い葉がそうだったように豊かさを表しています。
では、木の本質とは何でしょうか?私たちはしばしば木の葉を木の本質だと思いがちですが、残念ながら毎年置き換わってしまう木の葉は、そうだとは言い難いようです。一方木の幹は、季節が過ぎてもその場に残る木の本質のようなものだと考えられます。
話を元にもどしましょう。宗教の核、つまり本質とは何でしょうか?それは律法です。律法は、しばしば多くの儀式の慣行に囲まれています。木の例に当てはめますと、律法が木の幹、儀式は木の葉だということができるでしょう。
今日の福音書では、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、イエス様の弟子たちの中に洗わない汚れた手で食事をする者がいるのを見て、イエス様と弟子たちがこうした儀式、つまり小さな習慣をすべて守っていないことに不満を述べています。
それに対してイエス様は、預言者イザヤの言葉を引用し、このように答えられました。「彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
次にイエス様は、手の清めの問題を心の中のお話に置き換えました。つまり、イエス様は「心はどこにあるのか」という根本的な質問をされているのです。
私たちが祈りをするとき、心はどこにあるのでしょうか?私たちが教会に来るとき、心はどこにあるのでしょうか?私たちが宣教活動をするとき、心はどこにあるのでしょうか?
イエス様は、私たちの生活の宗教的側面において心はどこにあるのかを尋ねるほかに、さらに深く掘り下げて、「心はどれほど清いのか」と尋ねられます。
イエス様はこう言われました。
「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
そうなのです。心の中にあるものから、私たちの考え、言葉、行動などが流れ出てきます。つまり、私たちの考え、言葉、行動は心の状態を反映しているのです。ですから、聖体拝領の前に手を消毒するだけでなく、心も清めなければなりません。
聖アウグスティヌスは、私たちに次のような深い言葉を与えてくださいました。
「主よ、あなたが我々をお造りになりました。あなたが我々の心をお造りなりました。ゆえに我々の心は、あなたの内に憩うまで休まらない」
祈りと礼拝の中で、イエス様の御心に私たちの心を置きましょう。私たちの心を罪から清め、平安を与えてくださるようイエス様に願いましょう。
平和な心とは、清らかで、愛で満たされている心です。私たちの心がイエス様の御心のようになり、私たちの考え、言葉、行動を通して、他の人がイエス様の愛に満ちた御心を知ることができますように。
2024年4月25日木曜日
デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)の説教
復活節の第四主日
復活節の第 4 主日は伝統的に「善き羊飼い主日や良い牧者の主日」として知られています。皆さん、ペットを飼っている方はいますか? 犬、猫、金魚、ウサギ、カメ、馬などのペットを飼っていますか? 私はインドの家では犬と猫を飼っていました。鶏、ウサギ、水牛、牛、子牛もいました。羊をペットとして飼っている方はいますか? かつて、我が家にも羊がいました。
今日の福音書は羊の世話をする良い羊飼いの話です。ペットを飼っている人なら誰でもその気持ちはよくわかります。それは羊飼いが羊の世話をするときに感じるのと同じ気持ちです。今日の福音書でイエス様は「わたしは良い羊飼いである」と言われます。キリストが良い羊飼いなら、羊は誰でしょうか? 私たちは皆羊です。それでは、羊が羊飼いの声を聞き、羊飼いに従うことが義務であるならば、私たちは何をすべきでしょうか? イエス様の声に耳を傾け、良い羊のようにイエス様に従うべきですね。 もしイエス様が良い羊飼いであるなら、私たちも同じように良い羊飼いになるよう求められています。良い羊飼いであるということは、羊を飼わなければならないという意味ではありません。私たちの周りを見渡せば、世話ができる羊がたくさんいるでしょう。 配偶者、子供、両親、祖父母、兄弟姉妹、友人、そして近所の人たち、そして私たちの知らないホームレスの人たちです。これらの人たちは皆、私たちが世話できる羊です。これらの人たちは皆、羊飼いの群れの一員です。私たちは皆、良き羊飼いとなるよう呼びかけられています。
良い羊飼いは何をしますか? イエス様は福音の中で私たちに何を語られていますか? オオカミが来ると羊飼いは逃げるでしょうか? いいえ、羊飼いは羊の番をするためにそこにいます。家族、友人、職場の仲間が問題を抱えて相談に来ると、私たちはそれらを無視して自分の問題を心配する傾向があるのは本当ではないでしょうか。良い羊飼いになるのは簡単な義務ではありません。
今日の第一朗読でペトロは、家を建てる者に捨てられた石が「隅の親石」になったと語ります。ペトロは一度ならず二度ならず三度もイエス様を拒否した人です。状況が厳しくなってくると、ペトロは怖くなって隅の石を拒否してしまいました。しかし、今日の第一朗読で、ペトロは聖霊に満たされてイエス様の救いのメッセージを宣べ伝え始めました。 かつては恐れていたペトロが、今では聖霊の勇気をもって人々にキリストの福音を宣べ伝えています。したがって、教会は伝統的に、イエス様が自分の群れを託した人物として彼を見てきました。
私たちは福音の中で、良い羊飼いとは給料のために働く人ではなく、羊のために自分の命を犠牲にして羊を守る人であることを学びます。そして実際、これこそがキリストが私たちのためにしてくださったことであり、これからもキリストが教会生活の中で私たちのために命を与えてくださることなのです。キリストは神の御言葉を通して私たちに語られるお方であり、秘跡において私たちの中に働くお方です。私たちはいつもキリストの声に耳を傾け、キリストに常に従うように努めましょう。
復活節の第 4 主日は伝統的に「善き羊飼い主日や良い牧者の主日」として知られています。皆さん、ペットを飼っている方はいますか? 犬、猫、金魚、ウサギ、カメ、馬などのペットを飼っていますか? 私はインドの家では犬と猫を飼っていました。鶏、ウサギ、水牛、牛、子牛もいました。羊をペットとして飼っている方はいますか? かつて、我が家にも羊がいました。
今日の福音書は羊の世話をする良い羊飼いの話です。ペットを飼っている人なら誰でもその気持ちはよくわかります。それは羊飼いが羊の世話をするときに感じるのと同じ気持ちです。今日の福音書でイエス様は「わたしは良い羊飼いである」と言われます。キリストが良い羊飼いなら、羊は誰でしょうか? 私たちは皆羊です。それでは、羊が羊飼いの声を聞き、羊飼いに従うことが義務であるならば、私たちは何をすべきでしょうか? イエス様の声に耳を傾け、良い羊のようにイエス様に従うべきですね。 もしイエス様が良い羊飼いであるなら、私たちも同じように良い羊飼いになるよう求められています。良い羊飼いであるということは、羊を飼わなければならないという意味ではありません。私たちの周りを見渡せば、世話ができる羊がたくさんいるでしょう。 配偶者、子供、両親、祖父母、兄弟姉妹、友人、そして近所の人たち、そして私たちの知らないホームレスの人たちです。これらの人たちは皆、私たちが世話できる羊です。これらの人たちは皆、羊飼いの群れの一員です。私たちは皆、良き羊飼いとなるよう呼びかけられています。
良い羊飼いは何をしますか? イエス様は福音の中で私たちに何を語られていますか? オオカミが来ると羊飼いは逃げるでしょうか? いいえ、羊飼いは羊の番をするためにそこにいます。家族、友人、職場の仲間が問題を抱えて相談に来ると、私たちはそれらを無視して自分の問題を心配する傾向があるのは本当ではないでしょうか。良い羊飼いになるのは簡単な義務ではありません。
今日の第一朗読でペトロは、家を建てる者に捨てられた石が「隅の親石」になったと語ります。ペトロは一度ならず二度ならず三度もイエス様を拒否した人です。状況が厳しくなってくると、ペトロは怖くなって隅の石を拒否してしまいました。しかし、今日の第一朗読で、ペトロは聖霊に満たされてイエス様の救いのメッセージを宣べ伝え始めました。 かつては恐れていたペトロが、今では聖霊の勇気をもって人々にキリストの福音を宣べ伝えています。したがって、教会は伝統的に、イエス様が自分の群れを託した人物として彼を見てきました。
私たちは福音の中で、良い羊飼いとは給料のために働く人ではなく、羊のために自分の命を犠牲にして羊を守る人であることを学びます。そして実際、これこそがキリストが私たちのためにしてくださったことであり、これからもキリストが教会生活の中で私たちのために命を与えてくださることなのです。キリストは神の御言葉を通して私たちに語られるお方であり、秘跡において私たちの中に働くお方です。私たちはいつもキリストの声に耳を傾け、キリストに常に従うように努めましょう。
2024年3月30日土曜日
主のご復活おめでとうございます
兄弟姉妹の皆様
主のご復活おめでとうございます。
ともに喜びましょう。
「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコ16・7)
国際の総長より「在世フランシスコ会の皆様へ」、イースターカードが届きましたので掲載します。
日本在世フランシスコ会 全国兄弟会
会長 藤田重和
主のご復活おめでとうございます。
ともに喜びましょう。
「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコ16・7)
国際の総長より「在世フランシスコ会の皆様へ」、イースターカードが届きましたので掲載します。
日本在世フランシスコ会 全国兄弟会
会長 藤田重和
2024年3月10日日曜日
デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)の説教
3月10日(日)
四旬節の第四主日
四旬節第四主日の福音書には、イエスとニコデモの会話が記されています。ニコデモはファリサイ派でありユダヤ人の指導者です。彼は律法と預言者に関してよく知っていました。彼は明らかにイエスのことに関心を持っていました。彼は、神が共におられるのでなければ、イエス様はしるし(奇跡)を行うことはできないと信じていました。それで、彼はユダヤ人を恐れて、さまざまな質問に対する答えを求めて、夜中にイエス様のところにやって来ました。
イエスはニコデモにこう言われます。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」 ユダヤ人の指導者であるニコデモは、民数記21章からのこの言葉を確かに知っていたはずです。イスラエルの民は荒れ野で神とモーセに逆らったとき、神は炎の蛇を民に向かって送られました。蛇はイスラエルの民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出ました。民はモーセのところに来て自分の罪を認めて、蛇を取り除いてくれるようにと願いました。モーセは神に祈ったとき、神の命令によって、青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げました。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得ました。
なぜ自分自身の問題を仰ぐと癒されるのでしょうか? 誰かが恐怖に苦しんでいるなら、それはその人の人生に害を及ぼすに違いありません。主は何と言われるのでしょうか? 恐れるものから逃げるのではく、むしろ恐れることを仰ぐほうがよいでしょう。そうすれば、私たちはその恐怖を克服することができます。仏教の伝統にこんな面白い言葉があります。「恐れの気持ちをお茶に招きましょう。」 “Invite your fear in for tea.” これらの考えは、失敗への恐怖、病気への恐怖、死ぬことへの恐怖、友人を失うことへの恐怖などです。私たちはそれらの恐怖に共感し、その恐怖をお茶に招待しながら、「ようこそ、失敗への恐怖、お茶を一杯どうぞ」と言えば、私たちはその恐怖から効果的に距離を置くことができ、その恐怖を乗り越えることができるでしょう。
ここでも同じようなことが言えます。 「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」人の子も上げられねばならないというのは十字架のことです。イエスは地上から上げられ、十字架の上にさらされました。そしてその十字架上のイエスを見ると私たちは癒されます。
イエス様の十字架に何が見えますか? それは私たちを絶対に怖がらせるものです。 十字架上では、残虐さ、裏切り、暴力、侮辱、弟子たちに見捨てられたこと、肉体的な苦しみ、精神的な苦しみ、霊的な苦しみが見られます。これらは私たちが恐れていることです。
何をしてはいけないのでしょうか? 私たちは日常生活で直面する恐怖から逃げたり隠れたりするのではなく、むしろその恐怖に目を向けなければなりません。人の子が上げられるとき、彼を見て信じる者にはすべて永遠の命が与えられます。十字架において、私たちはあらゆる苦しみと恐れを見るのです。しかし、イエス様が言われる言葉は、私たちを力づけてくださいます。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
だからこそ、私たちは十字架において救いを見出すのです。救いとは勝利と癒しを意味します。どうすれば自分の恐怖心を癒すことができますか? それに目を向けるときです。同じように、十字架に上げられたイエス様を仰ぐとき、私たちは癒しを体験し、恐怖を克服したことが分かります。
四旬節の第四主日
四旬節第四主日の福音書には、イエスとニコデモの会話が記されています。ニコデモはファリサイ派でありユダヤ人の指導者です。彼は律法と預言者に関してよく知っていました。彼は明らかにイエスのことに関心を持っていました。彼は、神が共におられるのでなければ、イエス様はしるし(奇跡)を行うことはできないと信じていました。それで、彼はユダヤ人を恐れて、さまざまな質問に対する答えを求めて、夜中にイエス様のところにやって来ました。
イエスはニコデモにこう言われます。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」 ユダヤ人の指導者であるニコデモは、民数記21章からのこの言葉を確かに知っていたはずです。イスラエルの民は荒れ野で神とモーセに逆らったとき、神は炎の蛇を民に向かって送られました。蛇はイスラエルの民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出ました。民はモーセのところに来て自分の罪を認めて、蛇を取り除いてくれるようにと願いました。モーセは神に祈ったとき、神の命令によって、青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げました。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得ました。
なぜ自分自身の問題を仰ぐと癒されるのでしょうか? 誰かが恐怖に苦しんでいるなら、それはその人の人生に害を及ぼすに違いありません。主は何と言われるのでしょうか? 恐れるものから逃げるのではく、むしろ恐れることを仰ぐほうがよいでしょう。そうすれば、私たちはその恐怖を克服することができます。仏教の伝統にこんな面白い言葉があります。「恐れの気持ちをお茶に招きましょう。」 “Invite your fear in for tea.” これらの考えは、失敗への恐怖、病気への恐怖、死ぬことへの恐怖、友人を失うことへの恐怖などです。私たちはそれらの恐怖に共感し、その恐怖をお茶に招待しながら、「ようこそ、失敗への恐怖、お茶を一杯どうぞ」と言えば、私たちはその恐怖から効果的に距離を置くことができ、その恐怖を乗り越えることができるでしょう。
ここでも同じようなことが言えます。 「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」人の子も上げられねばならないというのは十字架のことです。イエスは地上から上げられ、十字架の上にさらされました。そしてその十字架上のイエスを見ると私たちは癒されます。
イエス様の十字架に何が見えますか? それは私たちを絶対に怖がらせるものです。 十字架上では、残虐さ、裏切り、暴力、侮辱、弟子たちに見捨てられたこと、肉体的な苦しみ、精神的な苦しみ、霊的な苦しみが見られます。これらは私たちが恐れていることです。
何をしてはいけないのでしょうか? 私たちは日常生活で直面する恐怖から逃げたり隠れたりするのではなく、むしろその恐怖に目を向けなければなりません。人の子が上げられるとき、彼を見て信じる者にはすべて永遠の命が与えられます。十字架において、私たちはあらゆる苦しみと恐れを見るのです。しかし、イエス様が言われる言葉は、私たちを力づけてくださいます。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
だからこそ、私たちは十字架において救いを見出すのです。救いとは勝利と癒しを意味します。どうすれば自分の恐怖心を癒すことができますか? それに目を向けるときです。同じように、十字架に上げられたイエス様を仰ぐとき、私たちは癒しを体験し、恐怖を克服したことが分かります。
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