2025年1月25日土曜日

国際フランシスカン家族協議会からの『兄弟なる太陽の賛歌』創作800周年に関する部分を翻訳







  全国養成責任者 竹田文彦兄
 (Facebookページより転載)







 フランシスカン800周年に寄せて、国際フランシスカン家族協議会(Conference of Franciscan Family)から総長の連名で出された文書のうち、『兄弟なる太陽の賛歌』創作800周年に関する部分を翻訳しました。関連するフランシスコの書き物や聖句があげられ、それらについての黙想の目的と具体的な行動の勧めが付されています。兄弟姉妹の皆様、参考にしてみて下さい。

 『兄弟なる太陽の賛歌』を祝う(1225-2025)

 アシジのフランシスコは、『兄弟なる太陽の賛歌』を創作した頃にはほとんど目が見えなくなっていました。にもかかわらず、彼は信仰の目をもち、感謝の気持ちに満たされながら、被造物のすばらしさを観想し、それらに意味を与えられた創造主の存在を感じ取りました。彼にとって、神の完全性を映し出す鏡であるすべての被造物は、私たちと同じ創造主の作品であり、賜物であると同時に私たちの兄弟姉妹でありました。すべての被造物は、賛美の列に加わって私たちとともに、惜しみなく善意を与えられる「大いなる施し主」( 「第二チェラノ」 77、Fontes Franciscani 665) 、創造主である神を観想し、賛美し、感謝します。

 『太陽の賛歌』は、吟遊詩人 (ポヴェレッロ) の人生最後の表現であり、告白でもあります。この『賛歌』は、愛する御子キリストに結ばれた聖フランシスコの人生の旅路すべてを要約するものです。神の父性 (つまり、創造主であること)に対する彼の信仰は、すべての被造物に対する兄弟姉妹愛、とその美しさを宣言する賛美の歌となります。実際、フランシスコは、「美しい事物の中に、美そのものを見いだし、被造物の中に刻まれた (神の) 痕跡を通して、いたるところで愛する方にしたがい、すべての物をはしごとして、完全に望ましい方(神)のもとへと登り、その方を抱きしめたのでした。(ボナヴェントラ『大伝記』9:1、Fontes Franciscani 1162)。

 フランシスカン家族として『被造物の賛歌』百周年を祝うことは、私たちと被造物との関係を根本的に変えることにつながります。私たちは、被造物を支配するのではなく、私たちの共通の家 = 地球) を大切にすることへと変わっていかなければなりません。実際、私たち一人ひとりは、次のような問いに真摯に答えなければなりません。「私は、他の被造物との関係をどのように生きたいのか?」、「被造物を使ってしたいことをする(この世界の)支配者としてなのか ?」、「利潤を得るための機会として被造物を見る資源の消費者としてなのか ?」それとも、被造物の前で立ち止まり、その美しさを賞賛し、その存在を守る兄弟姉妹としてなのか?」

 私たちは、私たちの未来を決定する人類学的、生態学的な課題に直面しています。なぜならそれは、母にして姉妹なる地球の未来に関わっているからです。私たちは、現代社会と向き合い、私たちと「世界との関係に兄弟愛と美の言葉を再び導入する」ことが求められているのです。(回勅『ラウダート・シ』11)

 現在の生態系の危機は、「人間環境と自然環境は一緒に悪化する」ということを示しています。(回勅『ラウダート・シ』48)この認識は、逆の言い方をするなら、人間環境と自然環境は、同様の仕方で、相互に守り、高め合うこともできるということでもあります。しかしながら、私たちの共通の家を大切にするためには、私たちの内なる家、つまり、私たちの心を大切にすることなしには上手くいきません。私たちは、自然環境におけると同時に内的な回心を必要としている。なぜなら自然環境の危機は、また深い内的回心への呼びかけでもあるからである。」(回勅『ラウダート・シ』217)

 実際、『賛歌』の最後の節は、開かれた心をもち、ゆるしによって憎しみと復讐の心を和らげることのできる者だけが、「神と、他者と、自然と、そして彼自身と単純かつ、素晴らしい調和のうちに生きた」師父聖フランシスコ自身のように、和解と調和の道具となり、兄弟愛の預言者的ビジョンを提示できることを私たちに思い起こさせてくれます。(回勅『ラウダート・シ』10)

    「賛美されますように、私の主よ、
    あなたがお造りになったあらゆるもの
    特に、私の主君、兄弟である太陽のゆえに、
    この兄弟は真昼の光、この兄弟によって、
    あなたはわたしどもを照らしてくださいます。
    この兄弟は美しく、大きな輝きをもって光り輝き、
    あなたのお姿を帯びています、いと高き方よ。」
    (『兄弟なる太陽の賛歌』3-4、Fontes Franciscani 263)

目 的:
 すべての被造物の中にご自身を現される創造主の存在と美しさを認識できる観照的な視野を養う。
求められる行動:
 ・ 被造物を観照し、その美しさを把握し、神に感謝するための十分な時間を頻繁に確保する。
 ・すべての被造物と私たちを結びつけている絆をよりよく理解するために、祈りや黙想のためのインスピレーションを与えてくれるものとして『被造物の賛歌』を用いる。
 ・回勅『ラウダート・シ』にある実践的な提案を注意深く検討し、責任を持って実行する。その際、フランシスカン家族によって出された多くの文書も参考にする。
 「あなたは三位にして唯一、・・・あなたは美」(『いと高き神の賛歌』3-4、Fontes Franciscani 261)

目 的:
 私たちが三位一体の神に似せて造られたゆえに、共同体に属する召命の大切さを再認識すること。
求められる行動:
・フランシスカン家族や兄弟会の他の会員と会う機会を作り、彼ら一人一人がもっている美しく、素晴らしい点を発見し、神に感謝する。
・被造物と私たちの絆を絶ち切り、現在の生態系の危機を引き起こしている諸活動を特定し、責任を持ってそれらに対抗できるようにする。
・総合的なエコロジーへの転換を強力に推進し、私たちの共通の家である地球を大切にし、廃棄物の削減、資源の再利用、リサイクルを実践するとともに、水やその他の資源の無駄遣いを排した責任ある利用を、私たちの家族や兄弟会で心がける。
 「それは、被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入るという希望です。」(「ローマ信徒への手紙」第8章21節)

目 的:
 創造主とその被造物との関係に癒しをもたらし、本来の調和を回復させるという、教会の責任を自覚すること。
求められる行動:
・私たちは皆、同じ家を共有しており、それゆえ私たちは、その家を大切にしなければならないという認識を深める。
・非生産性な人々を「切り捨てる」ような社会構造に対して、それに代わる具体的な対応策として教会の社会教説に沿って、包括的な経済政策実現のために率先的に推進する。
・教会の正義平和協議会(JPIC)の活動グループのために時間を割いたり、目に見える形での支援をする。
 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(「創世記」第1章 31 節)

目 的:
 人間環境と自然環境は互いに保護し合い、高め合うことができるという認識を深める。
求められる行動:
・私たちの共通の家をより住みやすいものにするために、すべての善意の人々と協力する。
・地球の、そして貧しい人々の嘆きの声に耳を傾け、応えることに関心を寄せる様々な社会組織、そして宗教組織との間のネットワークを促進する。
・言語、文化、民族、宗教などの区別なく、誰もが参加できる取り組みを通じて、利益と浪費の文化を克服するために、対話と兄弟愛の文化を育む。


更に詳しく知りたい方は、竹田兄のFacebookへ
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2024年12月23日月曜日

在世フランシスコ会 ティボール・カウセル総長からの クリスマスカード



そして喜びの日、
歓喜のときがやって来る。…
素朴さがきらめき、
貧しさがたたえられ、
謙虚さが求められる。…
そしてその夜は、
すべてが喜び踊っているかのようである。
  (1チェラーノ85)

皆さまの、神様の祝福に満ちた聖なる降誕祭と穏やかな新しい年を願っております。
  在世フランシスコ会
   総長 ティボール・カウセル

    2024年

2024年11月10日日曜日

第17回「国際総会」総会始まる


          総会開始ミサ後の報告について

総会開始ミサ後から行われた会議などの報告は、竹田文彦兄のFacebookで詳しくされていますので、こちらをご覧ください。

           竹田文彦兄のFacebook


2024/11/10(日)

          セラフィクム到着

 空港でイギリス、デンマーク、ロシアからの代表と合流してタクシーで総会の会場のセラフィクムに移動。在世フランシスコ会の国際総会には100カ国以上の国からの代表が集まりますので、英語1のグループに分けられました。



2024/11/10(日)

          夕方のミサから総会始まる

 いよいよ夕方のミサから9日間に渡る在世フランシスコ会の総会が始まりました。(もちろん、ミサも4カ国語の混成で行われます。)以前の総会で顔見知りの方もいれば、新たに加わった顔ぶれもおります。とにかく、世界中の各所から集まった在世フランシスコ会の会員たちです。私が教えている大学の学生たちを連れて🇻🇳ベトナムに5年前にボランティア旅行した時出会った青年がベトナム兄弟会の国際評議員として参加していたのには嬉しかったとともに驚かされました。




2024年11月9日土曜日

第17回「国際総会」ローマで開催(11月9日~17日)


      第17回「国際総会」ローマで開催(11月9日~17日)

 「国際総会」出席のため、日本在世フランシスコ会 国際評議員 竹田文彦兄が8日に向かい、本日9日にローマに到着しました。
 総会では在世会の向こう三年間の宣教・活動方針等についての多くの議題が話し合われる見込みです。実り多い総会となりますよう聖霊のお助けをお祈りください。
 この総会の内容などは逐次届きますので報告して行きます。

 本日到着の様子が届きましたので掲載します。

                                   

      ローマに無事に到着

τ Pax et Bonum
 在世フランシスコ会の総会出席のため羽田空港22:55発、🇫🇮フィンランドのヘルシンキ経由で🇮🇹イタリア・ローマまでやって来ました。ヘルシンキに約40分遅れて翌日の4:38に到着。ヘルシンキで乗り換えてローマ行き7:25発、🇮🇹ローマ、フミチノ空港に9:45に到着です。空港で同時刻帯に到着した各国の代表とともにイタリアの在世会会員が手配してくれたタクシーで総会会場のローマ市郊外のSeraphicumへ移動予定。  

 在世会の総会は、公用語としてイタリア語、フランス語、スペイン語、英語の四カ国語が同時通訳付きで行われます。様々な議論に加えてInstrumental Laboris と呼ばれる作業課題が与えられ、それについて総会参加者(Capitular)が話し合い、フランシスカン霊性を深めることが求められます。今回のテーマ「神は愛」について前もって総会参加者にA4用紙16枚からなる文書が配布されていましたが、それを機内では復習しました。
神の愛とはいかなることであり、在世フランシスコ会会員のこの世における存在、アイデンティティは、この神の愛といかに関わっているのか?
様々な仕方で急速に変わりゆく現代の状況の中で、私たちきは具体的にどのような活動が求められるのか?
 単なる慈善活動やボランティアなどにはとどまらないより抜本的なアプローチが求められています。

Instrumental Laboris の最後に付けられた検討課題は、次のようなものです。

1. 在世フランシスコ会は、Order(修道会)として愛を通していかに教会を、兄弟会を、そして世界を建て直していくのか?今日、いかなる愛のメッセージを私たちは人々に伝えるのか?私たち、在世会会員は、世界と教会に何を提示出来るのか?
2. イエスとの強い結び付き無しには、私たちは、隣人たちに愛を示すことは不可能。聖フランシスコがイエスに示した深い愛を考える時、私たちはいかにしてフランシスカンの伝統から学び、神と、私たちの家族や共同体の中の隣人に対する愛を成長させることが出来るのか?
3. 兄弟会の様々なレベルにおいて、例えば養成プログラム、コミュニケーション、規則、そして兄弟姉妹間における法的、道徳的諸問題において、いかにして愛を示していくのか?フランシスカンの兄弟姉妹に対して、愛の精神をもってゆるしと正義をいかに実践していくべきか?
4. しばしば会員相互の対立を生む、在世会の運営と財政に関する問題において兄弟姉妹としてお互いに愛を維持し、協力していくためには何が必要であるのか?
5. 神と隣人に対する愛を広く描くために、在世会員一人一人が国際兄弟会に属している感覚をいかにしたら強められるか?
6. 在世会とヤング・フランシスカン、相互のメンバーが、兄弟愛と相互支援と関心をもって、一つの同じフランシスカン霊性に歩んでいくためにどのようにしたら良いか?
7. ここで言及されていないが、取り上げるべきだと思われる他の点はありますか?
8. これらのことを踏まえて向こう三年間、国際兄弟会が優先課題とすべきことは何か?

これらの課題は、国際総会で話し合われた後、在世フランシスコ会の各レベル、国ごとの兄弟会(National Fraternity)、地区兄弟会 (Regional Fraternity)、各地兄弟会 (Local Fraternity) でさらに話し合われ、具体的な兄弟会の実践に移されます。

          竹田文彦

2024年9月10日火曜日

全国霊的補佐 デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)の説教

          年間第23主日

 今日のマルコによる福音書(7章31節~37節)は、耳が聞こえず舌も回らない人を、イエス様が癒されたという奇跡の話です。
 今日の福音書で、イエス様は「エッファタ」という言葉を使われました。「エッファタ」は、イエス様の母国語であるアラム語の言葉です。その意味は、「開け」ということです。福音書の中では、イエス様が話されたアラム語の言葉がそのまま伝えられています。イエス様の「エッファタ」、即ち「開け」という言葉は、なんと力強い言葉なのでしょうか。
 イエス様の言葉には閉ざされていたものを開く力がありました。これはイエス様の声を聞き従う私たちにとっても、大きな励ましであると言えるかもしれません。

 私たちは、霊的に耳が閉ざされた世界に住んでいると言えます。どういうことかと言いますと、私たちの周りには色々な声があふれていますので、神様の声が聞こえなくなっているということです。精神的に様々な不安を抱え、自宅に閉じこもった生活を送っている人も少なくありません。この状態では、自分が閉ざされているように感じるかもしれません。そのような時に、「エッファタ」、つまり「開け」と いうイエス様の力強く命じる言葉があれば、私たちを力づけてくださることでしょう。これは、大変喜ばしいことです。

 イエス様の声に耳を傾けるということは、私たちの心をイエス様に開くということです。「開け」というイエス様が命じる言葉に心を開く。それは、とても大切なことなのです。
 艱難辛苦に襲われた時、自分の思いや考えだけに心を向けると、神様の恵みの前で私たち心の扉が閉じてしまう恐れがあります。しかし、イエス様の方を向いて心を開くと、どうなるのでしょうか?そうです、神様のいつくしみと愛が私たちの心の中に入ってくるのです。

 神様が私たちをどれほど愛し、いつくしんでくださっているかということを忘れないようにしましょう。
 イエス様の励ましの言葉である「エッファタ(開け)」という言葉を信頼して、私たちが毎日、少しでも自分の心を開いて歩んでいけますように。また、日常生活を送りながら、いつでも神様の声が聞こえてくるように、神様への憧れを持てますように。そうすることによって、神様の豊かな恵みが私たちの内に、常に入ってくることでしょう。


2024年9月7日土曜日

全国霊的補佐 デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)の説教

          年間第22主日

 今日のミサの御言葉は、神の掟に忠実に従うよう私たちに勧めています。旧約聖書には、主がイスラエル民に与えた偉大な賜物である「律法」が記されています。神の戒め、つまり律法はイスラエル民の誇りであり、喜びでした。
 神は言われます。「あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい。」これは非常に貴重で完全な律法を説明される神である主の声です。これこそが律法の栄光です。これは、この律法を受け入れたすべての国民の中から選ばれたイスラエル民の特権です。詩篇の作者であるダビデ王は、詩篇の中で律法を賞賛し、昼も夜も律法を黙想することについてよく語っています。
 旧約聖書の預言者たちは、律法は神ご自身の心と最も深い意図に従って神の民を形作る美しいものであると述べています。政治的な意味では、法は社会的な権力の表現であり、国家を形成する手段なのです。

 新約聖書では、イエス様が善良なユダヤ人であり、律法に対して厳粛な敬意を抱いていることがわかります。イエス様は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するために来たのではなく、完成するためである」(マタイ5章17節)と言われました。
 実は 、マタイによる福音書では、イエス様は新しいモーセ、つまり新しい律法を与える者として描かれています。マタイによる福音書(マタイ7章)には、手を洗うことに加え、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることが数多く書かれています。ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守っていました。

 これら言い伝えとは一体何でしょうか?それは律法の核心でも、神の戒めでも、神の心の中心表現でもありません。これらはすべて、律法を支え、律法がもたらす習慣、行動、人間の伝統です。とはいえ、それらが悪いと言っているわけではありません。適切で自然なものだということです。

 木を例に挙げて、考えてみましょう。今の季節の木を見ると、木の葉は緑にあふれ、木々の豊かさを表しているようです。その後季節が移るにつれ、それらの木の葉は少しずつ色を変え、若い葉に置き換えられていきます。そして、この新しい葉は、かつて古い葉がそうだったように豊かさを表しています。
 では、木の本質とは何でしょうか?私たちはしばしば木の葉を木の本質だと思いがちですが、残念ながら毎年置き換わってしまう木の葉は、そうだとは言い難いようです。一方木の幹は、季節が過ぎてもその場に残る木の本質のようなものだと考えられます。

 話を元にもどしましょう。宗教の核、つまり本質とは何でしょうか?それは律法です。律法は、しばしば多くの儀式の慣行に囲まれています。木の例に当てはめますと、律法が木の幹、儀式は木の葉だということができるでしょう。

 今日の福音書では、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、イエス様の弟子たちの中に洗わない汚れた手で食事をする者がいるのを見て、イエス様と弟子たちがこうした儀式、つまり小さな習慣をすべて守っていないことに不満を述べています。
 それに対してイエス様は、預言者イザヤの言葉を引用し、このように答えられました。「彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
 次にイエス様は、手の清めの問題を心の中のお話に置き換えました。つまり、イエス様は「心はどこにあるのか」という根本的な質問をされているのです。

 私たちが祈りをするとき、心はどこにあるのでしょうか?私たちが教会に来るとき、心はどこにあるのでしょうか?私たちが宣教活動をするとき、心はどこにあるのでしょうか?
 イエス様は、私たちの生活の宗教的側面において心はどこにあるのかを尋ねるほかに、さらに深く掘り下げて、「心はどれほど清いのか」と尋ねられます。
 イエス様はこう言われました。
 「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
 そうなのです。心の中にあるものから、私たちの考え、言葉、行動などが流れ出てきます。つまり、私たちの考え、言葉、行動は心の状態を反映しているのです。ですから、聖体拝領の前に手を消毒するだけでなく、心も清めなければなりません。

 聖アウグスティヌスは、私たちに次のような深い言葉を与えてくださいました。
「主よ、あなたが我々をお造りになりました。あなたが我々の心をお造りなりました。ゆえに我々の心は、あなたの内に憩うまで休まらない」

 祈りと礼拝の中で、イエス様の御心に私たちの心を置きましょう。私たちの心を罪から清め、平安を与えてくださるようイエス様に願いましょう。
 平和な心とは、清らかで、愛で満たされている心です。私たちの心がイエス様の御心のようになり、私たちの考え、言葉、行動を通して、他の人がイエス様の愛に満ちた御心を知ることができますように。


2024年4月25日木曜日

デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)の説教

       復活節の第四主日


 復活節の第 4 主日は伝統的に「善き羊飼い主日や良い牧者の主日」として知られています。皆さん、ペットを飼っている方はいますか? 犬、猫、金魚、ウサギ、カメ、馬などのペットを飼っていますか? 私はインドの家では犬と猫を飼っていました。鶏、ウサギ、水牛、牛、子牛もいました。羊をペットとして飼っている方はいますか? かつて、我が家にも羊がいました。

 今日の福音書は羊の世話をする良い羊飼いの話です。ペットを飼っている人なら誰でもその気持ちはよくわかります。それは羊飼いが羊の世話をするときに感じるのと同じ気持ちです。今日の福音書でイエス様は「わたしは良い羊飼いである」と言われます。キリストが良い羊飼いなら、羊は誰でしょうか? 私たちは皆羊です。それでは、羊が羊飼いの声を聞き、羊飼いに従うことが義務であるならば、私たちは何をすべきでしょうか? イエス様の声に耳を傾け、良い羊のようにイエス様に従うべきですね。 もしイエス様が良い羊飼いであるなら、私たちも同じように良い羊飼いになるよう求められています。良い羊飼いであるということは、羊を飼わなければならないという意味ではありません。私たちの周りを見渡せば、世話ができる羊がたくさんいるでしょう。 配偶者、子供、両親、祖父母、兄弟姉妹、友人、そして近所の人たち、そして私たちの知らないホームレスの人たちです。これらの人たちは皆、私たちが世話できる羊です。これらの人たちは皆、羊飼いの群れの一員です。私たちは皆、良き羊飼いとなるよう呼びかけられています。

 良い羊飼いは何をしますか? イエス様は福音の中で私たちに何を語られていますか? オオカミが来ると羊飼いは逃げるでしょうか? いいえ、羊飼いは羊の番をするためにそこにいます。家族、友人、職場の仲間が問題を抱えて相談に来ると、私たちはそれらを無視して自分の問題を心配する傾向があるのは本当ではないでしょうか。良い羊飼いになるのは簡単な義務ではありません。

 今日の第一朗読でペトロは、家を建てる者に捨てられた石が「隅の親石」になったと語ります。ペトロは一度ならず二度ならず三度もイエス様を拒否した人です。状況が厳しくなってくると、ペトロは怖くなって隅の石を拒否してしまいました。しかし、今日の第一朗読で、ペトロは聖霊に満たされてイエス様の救いのメッセージを宣べ伝え始めました。 かつては恐れていたペトロが、今では聖霊の勇気をもって人々にキリストの福音を宣べ伝えています。したがって、教会は伝統的に、イエス様が自分の群れを託した人物として彼を見てきました。

 私たちは福音の中で、良い羊飼いとは給料のために働く人ではなく、羊のために自分の命を犠牲にして羊を守る人であることを学びます。そして実際、これこそがキリストが私たちのためにしてくださったことであり、これからもキリストが教会生活の中で私たちのために命を与えてくださることなのです。キリストは神の御言葉を通して私たちに語られるお方であり、秘跡において私たちの中に働くお方です。私たちはいつもキリストの声に耳を傾け、キリストに常に従うように努めましょう。