2023年8月31日木曜日

在世フランシスコ会の保護聖人 聖ルイ9世

  主の平和!

 「出典『Roman Catholic Saints』 https://www.roman-catholic-saints.com/traditional-franciscan-calendar.html 」を翻訳された三軒茶屋兄弟会の山本兄から、在世会の保護聖人である聖ルイ王についてのものが送られてきました。 その祝日から数日過ぎてはいますが、第三会(在世フランシスコ会)員として生涯を貫いた聖人、聖ルイ王を紹介します。      全国兄弟会会長 藤田重和


  在世フランシスコ会の保護聖人 聖ルイ9世

 聖ルイ9世は1215年4月25日、パリ近くのポワシー城で生まれました。信心深い母、ブランシュは、彼が統治する地上の王国だけでなく、さらには天の王国のために教育されるべきだと決意しました。彼女は彼にすべてのことを信仰の光で見るように慣れさせ、これによって幸運な時に謙虚さを保ち、不運な時に耐える精神の基盤を築きました。これは聖なる王を特徴づけていました。

 ルイはわずか12歳の時に王に即位しました。しかし、彼の未成年期には実際の政治は母に委ねられました。その間、ルイはキリスト教徒の王としてのすべての事柄を学んでいました。彼の指導者の中には何人かのフランシスコ会修道士がお<り、後に若い王自身も聖フランシスコ会の第三会に加わります。

 聖ルイ9世は自身の名のもとで数年間王国を統治したのち、あるとき深刻な病気の間に誓いました。回復したら聖地への十字軍を行い、聖なる場所を異教徒の手から奪い返すことを。健康を取り戻すとすぐに誓いを果たしました。彼はサラセン人からダミエッタの要塞を奪いましたが、彼の近親の従兄弟であるカスティーリャとレオンの王、聖フェルナンド3世ほどの成功をおさめることはありませんでした。おそらく聖ルイ9世が成功しなかったのは、神の意志ではなかったということでしょう。彼の軍が疫病の蔓延で弱体化した後、彼は捕虜の身となりました。

 異教徒の囚人として聖なる平穏をもって数ヶ月間苦しみに耐えた後、解放の条件が彼に出されました。しかし、これらの条件には、もし彼がそれらを履行しない場合、キリストとキリスト教の宗教を否定するという誓約が付されていました。
 聖なる王は答えました。「その冒涜的な誓いを私は口にすることはありません。」 彼らは死をもって脅しました。「よろしい、」彼は言いました。「あなたは私の体を殺しても、私の魂を決して殺すことはできません。」 その不動の勇気に感銘を受けて、彼らは最終的に彼を不利な条件なしで解放しました。キリスト教徒に有利な多くの他の条件を確保した後、彼は母がその間に亡くなったため、フランスに戻らざるを得ませんでした。

 王国の統治において、聖ルイ9世は信仰心があらゆる面でどれほど有益であるかを示しました。彼は国と人々の福祉を驚くほどの方法で促進しました。彼のキリスト教徒としての生活、またキリスト教徒の父親としての生活は非常に模範的であり、彼は第三会員の守護者と模範として選ばれるに値すると認識されています。

 彼の人生における最も重要な原則は、あらゆる状況下で神の法を遵守することでした。彼の伝記作家は、彼が決して致命的な罪によって洗礼の無垢を失わなかったと確信しています。彼自身は洗礼の恩寵を非常に大切にし、秘密の手紙で「ポワシーのルイ」と署名することで喜びを感じていました。なぜなら彼が洗礼を受けたのはそこにある教区教会だったからです。

 聖ルイ9世は使用人や宮廷人の間でも呪いや罪深い会話を決して許容せず、不親切な言葉や我慢できない言葉を発したことはありませんでした。彼は宮廷でのすべての不必要な華やかさや贅沢を避け、貧しい人々により多くの援助を提供できるよう願いました。彼は自身で数百人以上に食事を提供し、奉仕して、貧しい人々にも関わりました。彼の服装は適切な限りシンプルであり、常に外套の下に第三会の記章を身につけていました。特別な場合には第三会員の服を公然と着用していました。

 邪欲を抑えるために、彼は教会で定められたすべての断食を異例の厳しさで守るだけでなく、特に好きだった特定の食べ物も自制しました。彼は神が彼の結婚に与えた11人の子供たちに対して非常に心を砕いた父でした。彼自身は彼らと一緒に毎日祈り、彼らが学んだ教訓を試験し、キリスト教の慈善活動を行う際に彼らを導き、遺言で最も美しい指示を彼らに残しました。

 彼はキリストの受難に特別な献身を捧げ、イエスの茨の冠を手に入れたとき、それは彼にとって大きな慰めとなりました。彼はその保存のためにパリに壮大な聖堂を建てたのです。聖地のキリスト教徒への弾圧に対する深刻な訴えが彼の耳に届いたとき、1270年に2度目の十字軍を企てましたが、途中で自身が病死しました。彼が病死したのは、病気の兵士を訪問中に感染した疫病のためでした。

 主の家に入る喜びの叫び声の中で、聖ルイ9世は1270年8月25日に魂を神に委ねました。ルイ9世は1297年にボニファティウス8世によって列聖されました。

  from: The Franciscan Book Of Saints, ed. by Marion Habig, OFM

 祈願

 全能にして永遠に生きる神、あなたは聖ルイをこの世の支配者としての思い煩いから解放し、天の栄光へと導いてくださいました。彼の執り成しによって、私たちが地上で行う仕事を通して永遠の御国を求めることができるように助けてください。
 私たちの主、あなたの御子イエス・キリストによってこれをお与えください。この方は、永遠に一つの神、あなたと聖霊とともに生き、支配しておられます。アーメン。

2023年8月24日木曜日

ジョンソン神父(OFMcap)の年間第20主日の説教

壁と橋

 今日の福音箇所(マタイ15・21-28)は、イエス様とカナンの女の有名な物語です。これは多くの人を悩ませている福音箇所の一つです。イエス様がイスラエルの国境であるティルスとシドンの地方に行かれた時、カナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫びました。 通常、イエス様は「何かをしましょう」と言うでしょう。 しかし、この場合、イエス様は彼女に何も言われませんでした。 想像してみてください。もし誰かに何かをお願いをしたときに、相手が一言も言わなかったらどのように感じるのでしょうか。しかし、カナンの女が粘り強く続けてイエス様について行くと、イエス様は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えられました。それにもかかわらず、彼女はあきらめなかったので、イエス様は「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と最も厳しい言葉を言われました。非常に困っているこの女は、自分のためではく、自分の娘のために癒しを求め、信仰をもって、イエス様に「主よ、どうかお助けください」と言います。そして、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言う素晴らしい言葉が女の口から出てきます。この時点でイエス様は、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言われます。

 この福音箇所が気になるのはなぜでしょうか? イエス様は罪のないキリストですが、彼はかなり不機嫌そうで、この女を犬に比べます。この物語をそのまま読んで解釈すると、イエス様を救い主ではなく罪人にしてしまうことになり、罪のない神の御子が罪人であることはあり得ません。それ故、私たちはこの物語を新しい方法で読むべきだと思います。それはイスラエルと他の国々との関係に関するものです。イスラエルは神に選ばれた特別な民なのです。 しかし、それは他の国々が暗闇の中にあるという意味ではありません。イスラエルは自分のためだけではなく、他の国々のために選ばれました。イスラエルには神殿、律法、契約、預言があります。これらすべての目的は、イスラエル民が神の思いと心に従って聖なる民として形成されるためです。 神がイスラエルを選ばれたのは、イスラエル民がすべての国々を創造主なる神のもとに導くためでした。

 1974年のジョン・レノンの「ウォールズ・アンド・ブリッジズ (壁と橋)」という古いアルバムがあります。誰もが壁と橋を必要としている。壁は何をするのでしょうか?壁は何かを区別します。壁には含まれるものあるし、除外されるものもあります。何かの周りに壁を作るということは、「それがそのもののアイデンティティである」ということを意味します。イスラエルの周りに壁があったでしょうか?そうです、旧約聖書の律法、慣習と神殿の規定です。それはイスラエルの特定のアイデンティティを表すための目的としていました。イスラエルは他の国々のようになるべきではありませんでした。もし他の国々と同じになってしまうと、誠実さを失い、より広い世界に何ももたらすことができなくなるからです。もしエルサレムの壁が破壊され、偽りの崇拝と悪い道徳的習慣を持った他の文化が入ってきたとしたら、イスラエルは神から受けた命と魂を失うことになるでしょう。そして、もしイスラエルが自分の魂を失ったら、全世界の救いの希望は失われるでしょう。したがって、イスラエルには壁が必要であり、アイデンティティも必要でした。

 福音書では、カナンの女が壁際にいるかのように、イエス様に命を求めます。この物語の最後に、最初は壁の性質を強調していたイエス様が今度は橋を架けます。 この女は、イスラエルの美しさと誠実さを感じ、命を求める世界のすべての国々を代表しています。彼女の信仰は彼女の側からの橋となり、イエス様の憐れみは向こう側からの橋となります。そして今、イスラエルの恵みと命の一部が、より広い世界へと広がります。だからこそ、彼女はキリストの橋を通して命と恵みを受けとる諸国の教会の象徴になるわけです。

 最後に、私自身の人生について考えたいと思います。カトリックの家庭に生まれた私は、どれほど神の恵みを受けたでしょうか?敬虔なカトリック信者である両親は、私を養成のためにカトリック学校に通わせ、毎週日曜日にはミサに行かせてくれました。もし私の人生にキリスト信者というアイデンティティのような壁がなかったら、私はキリストを人々に与えられなかったでしょう。

 皆さんは「壁を築く人」ですか、それとも「橋をかける人」ですか? リベラル派(自由主義者)はより広い世界に目を向け、橋渡しをすることに専念する傾向があります。しかし、橋をかける前に壁のようなものがないと役に立ちません。なぜなら、より広い世界になろうとすると、自分のアイデンティティを失う危険があるからです。あるいは、コンサバティブ(保守派)で、カトリック習慣や文化を壁として固執し、教会の高い壁の後ろに身をかがめて防御するなら、最終的にその美しい共同体からより広い世界への橋を架けるという教会の使命を果たさなくなります。壁も橋もイスラエルを宣教者として定義されており、それが教会の本来の性質になっています。

2023年8月4日金曜日

ジョンソン神父(OFMcap)の年間第17主日の説教

 賢明で識別力のある心

 今日の第一朗読は列王記上からです。それはダビデとバテシバの息子ソロモンに関するものです。ソロモン王は神殿を築いたイスラエルの偉大な王でした。今日の箇所は、ソロモンが王権を始めた時の場面です。その時、彼は青年でした。彼は経験が浅く、おそらく誰でも初めて新しい仕事を始めるとき、あらゆる種類の自信喪失に悩まされるでしょう。
 主はソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われました。
 主が私たち一人ひとりにも同じ質問をされると想像しましょう。 実際、それは素晴らしい霊操だと思います。
 もし主は今あなたに現れてこう言われたとしたら、「何でも願いなさい。与えます。」その時、皆さんは何と答えるでしょうか? その質問に対する答えは私たちの魂の状態によって決まると思います。
 聖トマス・アクィナスが十字架の前で祈っていました。その時、主の声が聞こえます:「トマス、あなたは私のことを良く書いてくれました。ご褒美に何を求めますか?」 それで、聖トマス・アクィナスは「Non nise te, Domine」と答えました。これは「主よ、あなた以外の何ものを求めません」という意味です。もし主が私たちに質問されるなら、それが正しい答えです。
 ソロモンの答えを考えましょう。主が「あなたは何を求めますか?」と尋ねられたとき、ソロモンは「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と答えます。ソロモンは自分の人生と仕事を神の視点から見ようと求めています。彼は神の視点から世界を見たいと望んでいます。彼は神の思いと心をもって民を支配できるようになることを望んでいます。

 神はソロモンの答えに喜ばれました。そして神様はソロモンに求めたものを与えようと約束されました。神は彼をこれまで生きた中で最も賢い人にしてくださるでしょう。ソロモンが裕福な人になったとしても、神から与えられた知恵に満ちていたので、自分が所有する富をどのように使えばいいかを知っているでしょう。たとえ彼が強力な王であり、もの凄く権力を持つようになったとしても、神からの知恵があれば、彼はその権力をどのように使うべきかを知るでしょう。神の知恵があれば、権力を乱用することはありません。彼はその力を自分の目的のために使わないでしょう。神からの知恵がなければ、神の視点から世界を見ることができなければ、富や権力などをどう扱うべきかわかりません。もし神である主が共におられないなら、すべての世俗的なものが自分に襲いかかり、自分を滅ぼすでしょう。それは霊的な真実です。
 さあ、考えてみましょう。若きソロモン王にとって誘惑は大きかったに違いありません。若きソロモン王が、「私を史上最強の人間にしてください。すべての敵に対して勝利を与えてください」と言ったとしたら。神の知恵なしに、彼が持つ権力はどうなるでしょうか?権力が彼を追い越し、彼を滅ぼすでしょう。「私に何を求めたいのですか」とイエス様の声を聞くと、皆さんは答えを知っていると思います。お金や一番大きな家やスポーツカーを求めるのではなく、イエス様に聖霊の賜物を求めましょう。
 福音書の中でイエス様は、天の国は畑に隠された宝のようなものだと言われました。誰かがその宝を見つけると、自分の持ち物をすっかり売り払って、その畑を買います。隠された宝物は何ですか?それは識別力のある知恵の心です。それは私たちの内に生きておられるキリストに他なりません。なぜなら、その宝がなければ、私たちは霊的な生活に迷ってしまうからです。高価な真珠も私たちの中におられるキリストのことです。高価な真珠があったのに、私たちはそれを手に入れなかった。また、私たちは間違った場所で宝を探しているので、宝を手に入れなかった。宝と高価な真珠を見逃さないようにしましょう。見つけたら、一生幸せになれるでしょう。


 A wise and Discerning Heart

  This week I want to look at the first reading, which is from the first book of Kings. And it has to do with Solomon, the son of David and Bathsheba. He was the great Israelite king who built the temple. But the passage for this Sunday puts us right at the beginning of Solomon's kingly career. So, he's a young man. He is inexperienced, beset by all kinds of self-doubt, most likely, as anyone would be beginning a position like that.
  The Lord appears to Solomon in a dream. “Ask something of me and I will give it to you.” It’s actually a lovely spiritual exercise to imagine the Lord asking you the same question. So, the Lord appeared to you right now and said: “I will give you whatever you ask.” What would you say? How you answer that question actually will tell you a lot about the state of your soul.
  When St. Thomas Aquinas was praying before crucifix. And the voice comes: Thomas, you've written well of me. What would you have as a reward? And St. Thomas Aquinas’ answer is “Non nise te, Domine.” which means “nothing but you, Lord.” By the way, that's the right answer, if you're ever asked that question.
  Let’s see what was Solomon's answer. When the Lord asked, “What do you want?” Solomon says, “give your servant an understanding heart to judge your people and to distinguish right from wrong.” He's asking to be able to see his life and work from the stand point of God. He is asking to be able to see the world from the perspective of God. He's asking to be able to govern with the mind and the heart of God. Unless you have wisdom of heart, unless you can see the world from God's perspective, you will not know what to do with the things such as money, power, wealth and so on. But if I don't have Christ, all those worldly things will turn on me and destroy me. That is a basic spiritual truth.
  God is so pleased with Solomon’s answer and He promises that He will give it to Solomon. He'll make him the wisest man who was ever lived. Let's say Solomon becomes a wealthy and indeed he was very wealthy. With wisdom he'll know what to do with that wealth. Let's say he becomes powerful and indeed Solomon was very powerful. With wisdom, he'll know what to do with that power. He will not abuse it. He won't use it for his own ends.
  Now turn around. The temptation must have been great for this young man. Suppose young Solomon had said. “Make me the most powerful person ever. Give me victory over all my enemies.” What would he do with that power? That power would turn on him without wisdom. It would destroy him. And we hear the voice of Jesus asking what do you want me to do for you? You know the right answer. You ask for wisdom. You want see the world in the perspective of God. You may have the temptation to ask, I want the biggest house, I want a sports car, I want to go on the best vacations, I want to be famous. But you know what you need to ask for?
  Keeping Solomon in mind; in the Gospel, Jesus says the Kingdom of heaven is like a treasure buried a field. When someone finds it, he sells everything he got and buys that field. What's the hidden treasure? It is a wise and discerning heart. It's nothing but Christ dwelling in you. Because without that treasure, we are lost. The pearl of great price is the wise and discerning heart. That's Christ dwelling within you. But there's the Pearl of great price and we missed it. But we're looking for treasure in all the wrong places. We missed it. But don't miss it. If you find it you will be happy forever.

全国霊的補佐 デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)より  年間第16主日の説教

 毒麦に対して忍耐を持ちなさい。

 今日の福音書には三つのたとえ話があります。麦と毒麦のたとえ、からし種のたとえ、パン種の たとえです。イエス様はこれらのたとえを語られました。今日は最初のたとえ、麦と毒麦のたとえについて話したいと思います。

 ある人が自分の畑に良い種を蒔いたのに、敵がやって来て麦の間に毒麦を蒔きました。それで、麦と毒麦が一緒に成長し始めます。 僕 たちが主人に言いました。毒麦を抜き集めておきましょうか? しかし、主人は言いました。「いいえ、毒麦を抜くとき、麦も一緒に抜くかもしれない。」

 この物語は私たちの霊的経験に関して本当に根本的なことを語っています。ある種の善は、ある種の悪と組み合わされなければ存在しません。そうです、ある種の善は、ある種の困難や抵抗、さらには悪がなければ存在しません。

 たとえば、幼稚園の初日に幼稚園へ行く小さな子供のことを考えてください。子どもは最初の数 日間、大きな不安や困難を経験するかもしれません。自分を快適に感じさせるものすべてから遠ざかってしまいます。そして、知らない人々と共に全く新しい環境に強制的に入られることになります。そ れはどれほど辛いでしょうか?あるいは、大学の入学初日を迎える 18 歳の若者のことを考えてみ ましょう。そしてここも、彼は自分の世界、つまり家族、友人、快適な環境を離れ、まったく異質な環境 に置かれています。初めて仕事に就いた若い女性のことを考えてください。彼女は学位を取得しており、心の準備ができており、自信を持っています。しかし今、その日が来て、彼女は仕事の初日に出発しなければなりません。そして、彼女がこの新しい世界に足を踏み入れるとき、大きな緊張、不安、恐怖が生じる可能性があります。したがって、これら三つの場合すべてにおいて、人生におけるより深い 成長、経験、そして喜びは困難なしには不可能です。(私も来日した時同じように感じました)

 長年にわたって慢性疾患と闘ってきた人のことを考えてください。私はこのような苦しみを経験している人をたくさん知っています。多くの人は次のような質問をすることかもしれません。病気がなかったら、その人は忍耐力、勇気、共感力を身につけることができたでしょうか? 忍耐、勇気、信仰、粘り強く祈ることなどの多くの美徳は、その人がひどい病気と闘っていなければ得られなかったものです。

 否が応でも、麦と毒麦は一緒に成長します。毒麦を引き抜くことが常に正しい答えであるとは限りません。
 神が常に私たちにあわれみを示してくださることを忘れないようにしましょう。神はいつくしみ深く忍耐強いので、善(麦)が成長するために悪(毒麦)の存在をゆるします。神は悪を善に変えることができるので、悪の存在をゆるします。

  Be patience with the weeds.

There are three parables in today’s Gospel. The parable of the wheat and the weeds, the parable of the mustard seed, the parable of the Leaven. Jesus told these parables. I am going to speak about the first parable, that is the parable of the wheat and the weeds.

A man who sowed good seed in his field and then an enemy came and sowed weeds among the wheat. So, the wheat and the weeds begin to grow side by side. Slaves said to the planter. Shall we pull up the weeds? But he replies, no. If you pull up the weeds, you might uproot the wheat along with them.

This speaks something really fundamental in our spiritual experience. Some forms of good simply would not exist unless they were paired with certain types of evil. Yes, certain forms of good would not exist without certain forms of struggle or resistance or even wickedness.

For examples, think of a little kid heading off for his first day of school. The child may experience the enormous anxiety, difficulty in the initial days. You’re wrenched away from everything that makes you feel comfortable. And you're forced into this alien environment with people you don't know. How traumatic is that? Or think of an 18-year-old young man who is heading off for his first day of college. And same thing now at a higher pitch because you're more plugged in. You're leaving your whole world behind: your family, your friends and your comfortable environment and you're placed in this totally alien environment. Think of a young woman setting out for a first day of work. She has got her degree and she's full of confidence in preparation. But now the day has come and she has got to set out for the first day of work and there could be enormous nervousness, anxiety, tension as she enters this new world. So, in all three cases, deeper maturity, experience and ultimately joy would simply not be possible apart from suffering.

Think of somebody who has struggled mightily against the chronic disease for many years. I know many people who are going through these physical difficulties. In many cases you could ask the question: would that person have grown in patience, courage, empathy, without the illness? Lots of virtues such as patience, courage, faith, persistence in prayer etc., wouldn't have come unless the person is struggling against that illness. Like it or not, weeds and wheat grow up together. Tearing up the weeds isn't always the right answer.

God has shown us His mercy. God is so merciful and patient that He allows evil (weeds) to exist in order that what is good (wheat) may grow. He allows evil to exist also because He can turn it into good.