在世フランシスコ会 総⻑ ティボール・カウザー (Tibor Kauser) の⼿紙
親愛なる兄弟姉妹の皆さん!
主が皆さんに平安をお与えになりますように!
今年は、フランシスカン800周年記念の年の最終年に当たります。私たちはアシジの聖フランシスコがこの地上で過ごした⽣涯の最期の時を偲んでいます。しかしながら、私は皆さんにアシジのフランシスコの「帰天 (トランジトゥス Transitus)」について思い巡らせるとともに、同時に彼の⽣涯全体についても深く思いを馳せて頂きたいと思います。最期の数⽇間、それは、単なる短い期間ではありませんでした。フランシスコにとってそれは、彼の全⽣涯における神の御業の完成の時でありました。彼⾃⾝、「私は⾃分の務めを果たした。あなたがたがなすべきことは、キリストが教えてくださる。」と⾔っています。
「トランジトゥス」とは、この世からあの世へと移り⾏くこと、通り抜けることを意味します。聖フランシスコの⽣涯をたどってみましょう。彼は、⼈⽣を通して七つの段階、いわば、神が彼の前に開いてくださった七つの⾨を通り抜けていきました。これら七つの段階について考えを簡単に分かち合ってみたいと思います。それらは、神が私たちのためにも開いてくださる⾨でもあります。そうすることで皆様が聖フランシスコをより深く理解し、神に⼈⽣を導かれて歩むための⼿助けとなりうるかもしれませんから。
私たちは、神の道を歩む時、⾨をくぐり、さらに先へと進んでいく必要があります。神とともに歩んでいくのですが、この⾨は、⼀⽅通⾏なのです。「鋤に⼿をかけながら、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない。」(ルカ 9:62) と書かれています。 ⼀度、⾨の扉をくぐったら後戻りは出来ません。でも、それは私たちの背後で⾨が閉ざされるとともに、前進を妨げていたあらゆるものが神によって排除されることを意味しています。次の歩みへの障害とならないようにしてくださるのです。嵐は、この⾨を突き破って⼊って来ることはできません。内なる葛藤、不安、誘惑、悩みも、閉ざされた⾨を通り抜けることはできません。神は、常に私たちを前へ前へと導いて下さいます。聖フランシスコの⽣涯を改めて⾒直し、彼にならって私たち⾃⾝の⽣き⽅を模索しましょう。そして、この在世フランシスコ会への召命という素晴らしい賜物を共に⽣きていきましょう。
第⼀の⾨ ― 偉⼤な騎⼠になる夢
私たちは私たちの⼈⽣における神の偉⼤な計画を⾒出さなければなりません。かつてフランシスコは世の流れに⾝を任せるだけの若者でありました。明⽇のことなど全く考えず、ただ⽇々を楽しく遊び暮らすだけの⽣活をしていました。しかし、そんなフランシスコ・ベルナルドーネは、ある時から刹那的に毎⽇を⽣きるだけの存在から偉⼤な⽬標を持つ⼈物へと変わり始めます。まだ回⼼する前の若い時から、ただ友⼈たちと遊んで、時間を浪費するのではなく、偉⼤なことを成し遂げたいと願うようになったのです。そして、その場限りの⽬標は、やがて⼈⽣における⼀つの究極⽬標へと変わり始めました。彼の理想、つまり偉⼤な軍⼈となり、無敵の騎⼠となりたいという⽬標はまだ完全な意味で神の御計画に適ったものではありませんでしたが、フランシスコは「天職」というものを考え始めたのです。⼩さな⽬標はより⼤きな⼈⽣の⽬標と結ばれていなければ、私たちはその時々のことに気を取られて⼈⽣を無駄にしてしまいます。フランシスコが獄中で気付いたのはまさにこのことだったのです。どのような状況におかれても、私たちを上へと導いてくれる⽅(= 神) 無しには、私たちは、些細な事柄の間を彷徨うだけの存在になってしまいます。神はこのことをフランシスコに啓⽰されたのでした。⼈⽣は、その場しのぎや些細なことがらのためだけに⽣きるものではありません。フランシスコは⽣涯を通じて常に偉⼤な事柄に⽬を向けて⽣きる姿勢を貫きました。私たちもまた⼈⽣をその場しのぎで⽣きてはなりません。私たち⼀⼈ひとりの⼈⽣のために神は偉⼤な計画をもっておられることを⼼に留めておこうではありませんか。
第⼆の⾨ ―「苦いもの」から「⽢いもの」へ
神は私たちが常に神に⽴ち返ることを望んでおられます。なぜなら神は私たちが「苦さ」ではなく、「⽢さ」に満ちた⼈⽣を送ることを望んでおられるからです。⼤きな⽬標を⼼に抱くことは誰であれ強い決意を必要とします。⽬標が良いものであれば、それは⾮常に良いことであり、これからもそうであり続けるでしょう。しかし、何か間違った⽬標、単なる頑固な思い込みのようなものであれば、そう簡単にことは進みません。フランシスコが当初、思い描いた⽬標もそのようなものでした。そして、神は、その考えを変えて下さいました。回⼼は考え⽅の根本的な変化を意味します。些細なことについて考えを変えたり、物事をより良く、また、より多く、あるいはより少なくすることではありません。少しだけ違うやり⽅でやることなどではないのです。回⼼は根本的な変化です。フランシスコのハンセン病者との出会い、それはまさに彼にとってそのような根本的変化をもたらしました。フランシスコは、その時、⾺に乗っていました。ハンセン病者を⾒ることは彼にとって余りにも⾟く思われました。しかし神は、彼を変え、「第⼆の⾨」をくぐり、想像もできないような⾏動を取らせ、ハンセン病者を抱きしめるよう導かれたのでした。真の変化、フランシスコは、⾺を⽌めて⾺から下り、ハンセン病者に近づきました。そして神は、かつては苦かったものを⽢く変えて下さったのです。この時から彼はどんな⼈の中にもキリストを⾒出すことが出来るようになりました。今⽇、私たちは彼の時代のように⾺に乗っているわけではありません。しかし現代のハンセン病者、つまり⼈々から軽蔑され忌み嫌われているような⼈々の前で私たちは⽴ち⽌まり、⾼慢な姿勢を捨てて彼らに歩み寄らなければなりません。⾮常に困難であっても回⼼は極めて重要な⾏為です。神がすべての⼈、ハンセン病者でさえも⽤いて下さることを知るなら回⼼は私たちに根本的な変化をもたらしてくれるものだとわかります。私たちが⾃らの役割を果たしてフランシスコがしたようにこの第⼆の⾨をくぐりさえすれば、神が私たち⾃⾝では決して出来ないこと、すなわち「苦いもの」を「⽢いもの」に変えて下さるのです。⼼にこの「⽢さ」を抱いてフランシスコは神のみ旨を求め始めました。私たちも回⼼を通して神のみ旨を求めていきましょう!
第三の⾨ ― 兄弟愛へと導かれて
私たちは⼈と⼈⽣を分かち合うために創造されました。回⼼後、フランシスコは神だけと共にいたいと願いました。すべてを独りで⾏い、サン・ダミアーノ教会(および他の2つの教会)の再建もたった独りで始めました。彼は孤独を求め世俗を出たのでした。彼は最初、⼀⼈でハンセン病者のもとへ赴き、彼らを憐れみました。しかし神には別の計画があり、フランシスコが述べているように「主が私に兄弟たちを与えて下さいました」。彼は兄弟たちを探したわけでもなく、他者と共に共同体の中で⽣活したいとも思っていませんでした。しかし、彼は「神とだけいたいと願い、独居⽣活を求めていた者」から「兄弟たちを受け⼊れる者」へと変わりました。こうして兄弟愛に満ちた共同⽣活はフランシスカン霊性における最も⼤切な特徴の⼀つとなりました。兄弟的交わりは私たちの召命の根本的な部分です。在世フランシスコ会への召命は兄弟愛の中で⽣きる召命でもあり、神は決して私たちが孤独な英雄や隠遁者の聖⼈に⽣きることを望んではおられません。むしろ、私たちがいっしょに物事に取り組み、協⼒することがどれほど素晴らしいか、そして、それが神の願いであることを私たちに⽰してほしいと願っておられるのです。ともに聖性を求めましょう。誰も取り残されることのないようにしましょう。主は私たちにも兄弟姉妹を与えて下さいました。兄弟姉妹を神に感謝し、この賜物とともに⽣きましょう!
第四の⾨ ― 森だけでなく、⽊々にも⽬を向けること
私たちの⼈⽣の偉⼤な⽬標は実⾏に移されねばなければなりません。兄弟たちに対する責任を⾃覚し、彼らが神からの賜物であることを悟ったフランシスコは、彼の偉⼤なビジョン(洞察・展望)を⼩さな個⼈的出会いの中にどのように根付かせるかを⾒出しました。⼀⼈ひとりと個別に関係を深め、兄弟となりました。彼は新たに加わった仲間のために⾃⾝に課していた断⾷を⽌め、誰かに祈ってほしいと頼まれるとすぐに祈ってやり、兄弟レオのために個⼈的なメッセージを書いて渡しました。フランシスコは、偉⼤なビジョンや⽬標は、⽬の前の⼈々のために⽇々の⽣活の中で実践されなければならないと気付き始めたのです。家族の中、兄弟会の中、職場を⾒渡し、私たちの愛や助け、優しい⾔葉を必要としている⼈々を⾒つけましょう。神は私たちを⽤いたいと願っておられるのです!
第五の⾨ ― 愛と情熱の賜物
フランシスコはラ・ヴェルナ⼭で極めて特別で恵みに満ちた体験をしました。彼はキリストとの完全な⼀致を求め続けていましたが、まさに(「聖痕」を受けた) その深遠なる体験を通してキリストに求めたのは、⾃分が何かをしたり、もっと上⼿にできるようになることではありませんでした。「⾃らが (キリストを) ⽣きること」、それこそが、彼にとって最も意味のあることだったのです。つまり、フランシスコはその瞬間から「⾏動したいと願う者」から「キリストとともに在る者」へと変容したのです。何かを成し遂げたり、導いたり、率いたりする代わりに、ただ愛し、その情熱を感じることだけを求めたのです。神は彼に「聖痕」と彼が求めたすべてのものを授けられました。フランシスコは次の段階へと進み、善⾏や正しい⾏いを⾏うこと(それらを決して放棄したわけではありませんが)よりもただ単純にキリストとの⼀致を⽣きる⼈⽣を送るようになりました。神はフランシスコが愛と憐れみを完全かつ徹底的に体験する⼈⽣へと導かれました。キリストのために愛と憐れみの業を「⾏う (‘doing’) 」 ことよりも、キリストへの愛と憐れみに満たされて「在る (‘being’) 」ことがまず第⼀になりました。愛と情熱のうちにキリストとともに「在る (‘being’) 」ことに感謝しましょう。そうしてこそ、私たちも、また愛と憐れみをもってキリストとともに何かを⾏うことが出来るのですから。
第六の⾨ ―「在る」ことの深み
私たちは誰でも、やがて「在る」ということが単純でありながらその深みにおいて遙かに豊かな意味をもつ瞬間を迎えることになるでしょう。フランシスコも病に臥し、失明し、何もできなくなった状態でこの⾨をくぐり抜けなければなりませんでした。フランシスコが最期の期間に⽰したような感謝と喜びに満ちた⼼で耐え続けられる⼈は私たちのうちにそう多くはないでしょう。動くことも⾒ることも何かをする能⼒さえも失ったことで、彼には⼈⽣の真の価値が明らかになったのです。神は私たちが何をするかではなく、私たちが「誰であるか」という理由だけで私たちを愛してくださるのです。フランシスコは第六の⾨を通り抜け、最早、⾃分⾃⾝のものは何も所有せず、視⼒、健康、⼒までも失った、完全なる「貧しさ」に⾄りました。この⾨をくぐったことで⾃らが神の御⼿の中にあり、そこに計り知れない平安を⾒出して『被造物の賛歌』を綴るに⾄ったのです。では、私たちはどうでしょうか? 困難の中にあっても平安を⾒出すことができるでしょうか? 神の御⼿の中にいると実感するために何が必要なのでしょうか?
第七の⾨ ― この世から天国へ
⾁体の死は⼈⽣の⼀部です。しかし、それは喜びに満ちた瞬間ではなく、時に本当に苦しいものです。それは⾟い時間や⽇々も意味します。死は喪に服することであり、しばしば沈黙を伴うものです。しかし、⾳楽もまた沈黙から始まることを考えれば、沈黙は⾳楽の⼀部であり、その準備でもあります。死は地上の命の終わりではありますが、命の絶対的な終わりではありません。私たちは天国で神と共に⽣き続けると信じ、希望を抱いています。これこそがフランシスコとその仲間たちが理解し、信じていたことであり、だからこそ私たちはそれを「トランジトゥス (Transitus この世からあの世への「移動」) 」 と呼ぶのです。フランシスコはまさにこの瞬間に彼の⼈⽣が神によって満たされたものであったことを感じることが出来ました。彼が神から授かったすべてのものがこの⼀瞬に凝縮されていました。フランシスコは偉⼤なる王 (= 神) の使者、先触れとして最期の瞬間まで神を賛美しました。彼は、ヤコパ夫⼈が彼のために⽤意した⽢いお菓⼦をいただくだけではなく、内なる⽢美さも味わっていたのです。彼は愛する兄弟たちに囲まれ、最期の瞬間も兄弟愛を分かち合うことが出来ました。兄弟⼀⼈ひとりを祝福し、最⼤の愛と⼤きな情熱をともに感じることができました。そして、最後に彼は⾃分の魂を神の御⼿に委ねました。彼の「トランジトゥス(旅⽴ち)」は安らかな瞬間であり、終わりとしてではなく、向こう側への「渡り」として体験されました。「彼の兄弟であり弟⼦の⼀⼈、少なからぬ名声を持つ男が、…… ⾄聖なる⽗の魂が多くの⽔の上をまっすぐに天へと昇っていくのを⾒た。それは星のようで、⽉ほど⼤きく、太陽のように明るく、⼩さな⽩い雲に乗っていた」。
さあ、続けましょう!
神は10⽉3⽇の夜に師⽗聖フランシスコが亡くなるまで、その⽣涯を通じて彼を導き続けました。彼は外⾯的なことがらの重要性ではなく、⼈間の内⾯にこそ絶対的重要性があるという境地へと⾄りました。⾏動や⾔葉によって福⾳を宣べ伝える⽣き⽅から、⾏動や⾔葉さえも消え去ってただ「在ること」だけが残る、絶対的な静寂の⽣活へと⾄ったのでした。慌ただしく動き回る⽣活から、すべてを受け⽌める、泰然⾃若とした⽣き⽅へ。⾔葉や⾏いによって福⾳を宣べ伝えることから、むしろ「何を受け⼊れ、何に⽿を傾けるか」によって福⾳を宣べ伝える段階へと⾄ったのです。最終的に彼は「偉⼤なる王の使者」となりましたが、それは彼が当初想像していたものとは全く異なる形でした。神が私たちを⾃⾝の考えから神の計画へ、また、この世のことがらから神のことがらへ、どのように、そして、どこへ向かって導いておられるのか、注意深く深く観察しようではありませんか。神はフランシスコ同様、私たちも天国へと導いて下さいます。フランシスコに倣ってこう⾔おうではありませんか。「神はご⾃⾝が成し遂げようとされる素晴らしい業のために、この地上において私ほど卑しい被造物を⾒つけられなかった」。神は私たち皆のために七つの⾨すべてを開いて下さる。私たちが⾃らの⼈⽣において神の素晴らしい御業を⽰すことができるように。
この三年間を経て、2026年10⽉4⽇の聖フランシスコの祝祭⽇を過ぎた後、私たちの⽣活はこれまでと同じであってはなりません。何も特別なことが起こらなかったかのようにただ続けていてはならないのです。私たちは聖フランシスコの⽣涯の最期の数年を振り返る中で多くの宝物を受け取りました。しかし、それは同時に私たちの責任を意識させるものでもあります。私たちは⽿にし、⽬にし、体験したことから学ぶ責任があり、それを分かち合い、私たちの兄弟会を、召命を⽣きるためのより良い場所にしていく責任があるのです。過去に聖フランシスコから霊感を受けた⼈々に感謝しましょう。なぜなら、彼らの模範、教え、そして忠実さがなければ、私たちもフランシスカンであることは出来なかったでしょうから。そして、私たちの後に続く⼈々にも「フランシスカン霊性は今⽇も⽣き続け、朽ちたり廃れることがないとはなんと素晴らしいことでしょう」と⾔えるように、私たちはこの霊性を⽣き、次の世代へと伝えていこうではありませんか。
10⽉4⽇は師⽗の死を悼む⽇ではありません。私たちは神の恵みを思い起こし、聖フランシスコに感謝を捧げ、彼がこの世から天国へと旅⽴った「トランジトゥス」を思い返しながら、私たち⼀⼈ひとりが⾃らの召命と使命を新たにするための新たな糧となるように祈りましょう。そして師⽗の模範に基づき、神が私たちを教え導いて下さるように願いましょう。そして、私たち⼀⼈ひとりが最期の時に師⽗に倣って「私は⾃分の務めを果たした。キリストが、あなたがたに、あなたがたに課せられた務めを教えて下さいますように!」と⾔えますように。
私たち皆が、天においては⾄⾼の⽗の祝福に、地においては御⼦と聖霊の祝福に満たされますように、師⽗聖フランシスコ、私たちのためにお祈り下さい。
皆様の兄弟にして奉仕者 総⻑ ティボール・カウザー
(翻訳: ⽇本在世フランシスコ会全国会⻑ ⽵⽥⽂彦
※ 訳⽂は、⼤意を取りながら⽇本の会員の皆様が理解しやすいようにしました。是⾮、ご⼀読下さいませ。)

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