2月の各地兄弟会集会の全国共通生涯養成テーマです。
日本26聖人2月5日周辺で可能な範囲で実施されることをお願いいたします。
(2) 聖ルイ王とキリスト信者としての公的決意
「ルイ王の正義はなんと偉大だったことか ! 彼の正義は日常的に行われていた。 ルイは訴えを聴くため、そしてとりわけ貧しい者、孤児の声に耳を傾けるために、ずっと床や毛皮の上に座り続けた。ルイは貧しい者、孤児の側に真っ当に正義が行われるように。」
(教皇ボニファチオ8世)
「汝に油を注いでフランス王に聖別したことが主の御心なら、王たるに相応しい資質を具える様に心せよ。 それは即ち、 決して正義から離れない様にする事だ(中略)真実が何か判明する、富んだ者でなく貧者の声をむしろ積極的に聴き続けよ。 そして真実が明らかになったなら、裁きなさい。」
(息子フィリップへの聖ルイの言葉)
①歴史的側面 :「キリス ト信者たる王の模範に挙げられる聖ルイ」
聖ルイはキリスト教王の責務を力の及ぶ限り完全に果たそうと務めました。
王の責務を国を良くするだけと限らず、民の霊性向上にも及ぶと考えました。王権の行き過ぎや貴族の専横を抑制し、民が正義の恩恵を享受し公平に扱われる様に意を用いました。 取り分け貧し人達を大切に心に留めました。(会憲22条)
フランス王国では「平和を創り出す者」。国際舞台では様々な機会を捉えて外国の王達の紛争を調停し、平和の使者たろうと尽力しました。 (会則19条、会憲23条)
国民の習慣を向上させるため、 神への冒涜を厳しく罰し、市街での賭博と売春を禁止しました。
②牧的側面 「公に言い表す」
聖ルイは当代の政治家の模範です(会憲20条2)。
聖ルイに倣って多くの在世フランシスカンが政治に身を投じました。トマス・モア(1500年代前半の英国大法官:聖人)、ガルシア・モレノ(1800年代後半のエクアドル大統領)、ジョルジョ•ラピラ(冷戦時代のフィレンツェ市長)、フランク・ノゼック、コンラート・アデナウアー(戦後のドイツ首相)、アルチーデ・デ・ガスペ(戦後のイタリア首相:キリスト教民主主義の創設者)等です。キリスト信者は往々にして政治への関与に拒否反応を示します。 或いは、 キリスト信者を標榜する政治家が教会の立場を擁護する事は殆どありません。 この事について、 会則と会憲は何と言っているでしょうか。
③ルイから今日へ
分かち合いの課題:
― 回心の参考にするため、次の課題から幾つか選んで話し合いましょう ―
◆キリストに従う
イエズスは公生活を通じて公然と語り、 御自身を露わされました。 時にそれは人々には受け入れられず、弟子達にさえ理解されない危険をも顧みず主は語られました。 福音の章句から何を「イエズスが公然と語られた」ことを調べて思い巡らしましょう。
◆霊的生活
私達キリス ト信者は神様から一人ひとり召命を与えられ、 正義と平和の王国の建設に参与するよう招かれています。この召命に関して、今日私たちのやるべきこととはどんなことでしょう?
(それぞれが置かれている環境で、職場で、あるいは政治においての)正義と平和に関する召命によって自分が何に駆り立てられたのか、自分がどう変えられたのか、体験を分かち合いましょう。
会則15条(そして、会憲12条2、22~23条)を今一度、一緒に読んでみましょう。
自分と違う意見(所属組織や仕事上、政治等)が霊的生活の糧となったのはどんな時でしたか?或いは逆に、 霊的生活からどんな務めに突き動かされましたか?
◆世にあって
キリスト者として私たちを社会的参与に突き動かすものは何でしょう? (その時その時で、或いは社会のその状況に即して)私たちが優先的になすべきことはどのようなことでしょう。それはどうしてそうなのか考えてみましょう。
社会で疎外された人々(搾取、不平等などで)で限界状況な生活している人達の実情を分かっているでしょうか。何に対して私達は怒りを表すべきでしょうか、又受け容れ難い事に直面して抵抗するでしょうか。(会憲19条2)
注) 社会的構造によって力関係ができあがってしまっているところでは、弱い立場から這い上がれないような状況が固定化してしまっています。(北アメリカ、南アメリカなどのケース)。私たちはそのような状況に弱い人たちがおかれている実情を知っているでしょうか? 私たちはこのことを知ったときにどのように弱者に寄り添うことができるのでしょうか? (会憲19条2)このような地域に多くの在世会の兄弟姉妹がいて、生涯をかけて働き、また在世会の国際組織レベルではこのような地域を支援しています。
選挙で投票行動を取る際の判断基準は何でしょうか。更に投票する候補者の男女一人ひとりをどんな観点から吟味するでしょう?
◆養成
召命の責務を全うしよう とするキリスト信者は『教会の社会教説』を読んで認識を深め、社会的問題(例えば生命倫理について等)に対してなどの態度を決める様に招かれています。どのような方法で私たちはそれを考えるのでしょう?『教会の社会教説』などを読んで。ワークショップや研修会などに参加して。在世フランシスコ会国際評議会のホームページ(
http://www.ciofs.org portal )を見てなど。
◆問いをたてる
2013年6月7日(金) 教皇フランシスコはキリスト信者が政治的態度を表明するよう、勧告して「政治に関わる事はキリスト信者にとって務めです。 キリスト信者は決してピラト役割を演じてはなりません。「責任はない」と手を洗ってはいけないのです。政治に意見しなければなりません。何故なら政治は共通善を追及する愛の行ないの最も高次な段階の一つだからです。」教皇は更に聖トマス・アクィナスの言葉を引用して語ります。 「信徒は政治に参加すべきだ。 …政治は汚れてしまった。 しかし内省してみなさい。 どうして政治が汚れたのか。 なぜならキリスト信者が福音的精神で政治に関わる事を忌避したからだ」この問いに私はどう応えましょうか?
◆第二バチカン公会議をうけて生きる生活
実際に急を要する問題して、公会議は人間の尊重を強調する。 各自は隣人を例外なしに「もうひとりの自分」と考えなければならず、彼らの存在に心をかけ、彼らが尊厳を持って生きるために必要な手段を考慮しなければならず、貧しいラザロのことを少しも顧みなかった金持ちになってはならない。特に現代においては、われわれ自身がすべての人の隣人となり、出会う全ての人に積極的に奉仕する急務がある。たとえば、すべての人から見捨てられた老人、理由なく軽蔑されている外人労働者、難民、自分が犯したのではない罪のために不当な苦しみを受ける私生児、「これらのわたしの兄弟、しかもいと小さい者のひとりにしたのは、わたしにしたのである」 (マタイ25:40)との主のことばを思い出させて、われわれの心をゆさぶる飢えた人などである。
特に、あらゆる種類の殺人、集団殺害、堕胎、安楽死、自殺など、全て生命そのものに反すること、傷害、肉体的および精神的拷問、心理的強制など全て人間の尊厳を侵すこと、人間以下の生活条件、不法監禁、流刑、奴隷的使役、売春、女性や子供の人身売買など、全て人間の尊厳に反すること、また労働者を自由と責任のある人間としてではなく、単なる収益の道具として扱うような悪い労働条件など、これらの全てと、これに類することは真に恥ずべきことである。それは文明を毒し、そのような危険を受けるものよりはそのようなことを行う人をけがすのであって、創造主に対するひどい侮辱である。[1]
◆福音を生きる (マタイ5,1-2,13-16)
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。[…] 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。 山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、 あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
[1]:第二バチカン公会議 『現代世界憲章』“Gaudium et spes”(慶びと希望)§27.
文責/養成責任者 上野まさみ