2023年12月23日土曜日

フランシスカン・ベツレヘム - グレッチョ

                   Fr デソーザ・ジョンソン(OFMcap)

 今年、私たちはグレッチョのクリスマス 800 周年をお祝いします。イタリアの小さな町グレッチョには、パレスチナの小さな町ベツレヘムに似たスピリチュアルな雰囲気があります。グレッチョはフランシカン・ベツレヘムとしてよく知られています。
 1223年にアッシジの聖フランシスコが最初の飼い葉桶を作ったのはこのグレッチョです。今日、飼い葉桶(馬小屋)を作る伝統は、主の降誕をお祝いする一部となっています。アシジの聖フランシスコにとって、神の御子イエスの受肉の神秘である御降誕は、神の深い謙虚さの驚くべき出来事でした。聖フランシスコの深い憧れの一つは、御子の真の貧しさと謙虚さを自分の目で見て、経験したかったのです。
 1223年、主の降誕の祝日に、聖フランシスコは創造的な想像力で、神の御子の受肉の神秘を観想し祝うために、キリストの誕生をご聖体の祭儀の中で再現しました。 1223年に初めて飼い葉桶が作られたとき、動物の像はありませんでした。そこには牛とロバと干し草しかありませんでした。
 荘厳な聖なる夜、聖なる方であるアシジのフランシスコは素晴らしい幻を見ました。聖なる幼子が飼い葉桶に寝ていました。聖フランシスコはこの聖なる幼子を腕に抱きました。そしてその子はベツレヘムの幼子イエスでした。グレッチョは新しいベツレヘムに変わりました。

  This year we celebrate the 800th anniversary of Christmas at of Greccio. Greccio a small town of Italy has a spiritual atmosphere similar to holy town of Bethlehem. Greccio is better known as Franciscan Bethlehem.
  It was at Greccio that St. Francis of Assisi prepared the first manger (crib) in 1223. Today, the tradition of making mangers is the part of the Christmas. For St. Francis of Assisi, the Nativity of the Lord Jesus, the mystery of the Incarnation of the Son of God, was an amazing event of God's profound humility. One of St. Francis' deepest longings was to see and experience for himself the true humility of God.
  In 1223, on the Feast of the Nativity of the Lord, St. Francis used his creative imagination to recreate the Nativity scene in the celebration of the Eucharist, in order to contemplate and celebrate the mystery of the Incarnation of the Son of God. When the manger was first prepared in 1223, there were no statues. There were only cow and ass and hay.
  On the night of the solemn celebration, the Holy man of God, St. Francis had a wonderful vision. The holy child was lying in a manger. St. Francis held this holy infant in his arms. And that child was the infant Jesus of Bethlehem. Greccio turned into a new Bethlehem.
アシジの聖フランシスコ (St Francis of Assisi)
誕生Born 1181.
死去Died 1226.

2023年12月19日火曜日

「神の道化師、フランチェスコ」上映の紹介

「神の道化師、フランチェスコ」(ロベルト・ロッセリーニ監督、ロッセリーニとフェデリコ・フェリーニの共同脚本)のデジタル・リマスター版が上映されます。 12月22日(金)より、東京から始まり順次全国のいくつかの地域の劇場で上演されます。 詳しくは下記のサイトをご覧ください。

   オフィシャルサイト→https://francesco-gd.com/ 
   X(旧Twitter)→@Francesco1222rr

 上映劇場
  仙台市 フォーラム仙台 2024/1/12(金)~
  新宿区 シネマカリテ 2023/12/22(金)~
  横浜市 横浜シネマリン 近日公開
  川崎市アートセンター 近日公開
  名古屋市 ナゴヤキネマ・ノイ 近日公開
  大阪市 シネ・リーブル梅田 近日公開
  京都市 京都シネマ 近日公開
  神戸市 Cinema KOBE 近日公開
  広島市 横川シネマ 近日公開
  福岡市 KBCシネマ 近日公開

2023年12月18日月曜日

デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)の説教

     待降節の第三主日








 待降節の第三主日は伝統的に「ガウデテ・サンディ」と呼ばれています。「喜びの日曜日」という意味です。ガウデテ(Gaudete) はラテン語の命令形です。「喜びなさい!」ということです。「主によってよろこびなさい。」 教会は私たちに「喜びなさい」と言い、第一朗読(イザヤ書 61:1-2、10-11)で私たちが喜ぶべき理由を教えてくださいます。 「メシア」即ち「救い主」とはイエスご自身です。 イエス様は宣教活動を始める前に、会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになって、預言者イザヤの巻物をお開きになると、次のように書いてある個所が目に留まりました。(イザヤ書 61:1-2、10-11、ルカ4:18)

1.「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。貧しい人に良い知らせを伝えさせるためにわたしを遣わされました。」
 「良い知らせ」 - 貧しい人々にとって喜ばしい知らせを意味します。イエス様は生涯をかけて貧しい人々に手を差し伸べました。 ここで、経済的に貧しい人だけではなく、心の貧しい人々のことも含まれています。確かに、イエス様の山上の説教の中で、「心の貧しい人々は幸いである」という言葉を聞きますが、心の貧しいとはどういう意味でしょうか。彼らは神から遠く離れ、人生の意味や目的を失った人々でした。 イエス様の生涯は、経済的に貧しい人々だけでなく、霊的に貧しい人々にも良い知らせを伝えることでした。 -だからこそ、私たちは喜ぶのです。

2.「打ち砕かれた心を。」 打ち砕かれた心を癒すために油そそがれました。
 私たちはハートブレイクあるいは失恋や傷心を一種の感情的苦しみとして話します。しかし、聖書の「心」とは、人間の存在の最も深い中心を意味します。それはおそらく「魂」という意味するものに近いでしょう。それはまさに人間の核心です。人間関係、家族、仕事など、私たちが取り組んでいることすべてについて考えてください。しかし、そのすべての根底には心があります。そして心は神と結びついています。それで、打ち砕かれた心の人は誰ですか?それは私たち全員です。心が神から疎外されている私たちは皆、心の中で深い悲しみを経験します。イエスは何をしに来られたのでしょうか?打ち砕かれた心,即ち傷ついた心を癒すために来られました。イエス様は私たちを救い、神との友情を回復するために来られました。それを経験すると、私たちは喜ぶでしょう。

3.「捕らわれ人には自由を,つながれている人には解放を告知させるために。」
 イエス様は捕らわれた人に解放するために油を注がれました。 「捕らわれている」とは聖書の中で罪を表します。魂は天使のように飛ぶためのものなのです。魂は神の愛の関係の中でより広い世界に手を伸ばし、最終的には神に到達します。罪とは何ですか? 聖アウグスティヌスはそれを「Incurvatus in se」と呼んでいます。 “Incurvatus in se” ラテン語で「自分自身の中で曲がった/湾曲した」という意味です。神や他人の「外側」ではなく、自分自身の「内側」で生きる人生を表します。私は神との関係や友情を求めていないということです。私は自分自身の不安や心配に気を取られすぎて、それによって自分自身を自分の中に閉じ込めています。私たち罪人は皆、この霊的な牢獄の中にいるようなものです。多くの人が中毒や依存症に陥っています。その状態から出ることはできません。私たちの救い主であるイエスは、私たちをこうしたあらゆる形態の捕らわれの状態から解放するために来られました。キリストは十字架上で、神のあわれみと赦しをもたらし、最も暗い場所にも光と救いをもたらして下さいました。イエス様のあわれみを経験すると、私たちは喜ぶでしょう。
 ですから、主に祈りましょう。「主よ、私は捕らわれの状態にいることを知っています。ですから私を解放するためにあなたが来られた」という良い知らせを聞きます。したがって、「ガウデテ!」喜びなさい!


     Third Sunday of advent

The third Sunday of Advent is traditionally called “Gaudete Sunday.” Gaudete is a Latin imperative. It's a command. So, the Church is telling us to be happy and it gives us in the first reading (Isaiah 61:1-2, 10-11), the reasons why we should rejoice. “The Messiah” and of course, it's Jesus himself who confirms this interpretation. Because at the beginning of his public life, when he gets up in the synagogue and it's his prerogative to choose the Scripture text and to comment upon it. Jesus precisely chooses this text (Luke 4:18, Is 61:1-2) that we're reading on Gaudete Sunday.

1. “The Spirit of the Lord is upon me, He has anointed me, and He has sent me to bring glad tidings to the poor.
“Glad tidings” - it means good news to the poor. Jesus spends reaching out to those who are poor. But he is also talking about the spiritually poor? Indeed, we hear that, in the gospels, in the Sermon of mount, “Blessed are the poor in spirit” What does that mean to be poor in spirit? And what he meant was those who are far from God, those who have lost the sense of meaning and purpose. Jesus’ life was all about announcing good news not only to those who are economically poor but also to the existentially poor. -That's why we rejoice, because all of us who are poor to varying degrees have been addressed by this good news.

2. He's anointed “to heal the brokenhearted.”
We speak of heartbreak as a kind of emotional suffering. But “the heart” in the Bible means that deepest center of thought and feeling and action. It's closer probably what we mean by the word “soul.” It's the very center of a person. Think of all the various things we’re engaged in: our relationships, our families, our work and all that we do. But at the ground of all of that, there's the heart. And the heart is meant to be in union with God. So, who are the broken hearted? It's all of us. All of us who's hearts have been alienated from God, and therefore we experience a deep sadness in our hearts. What's Jesus come to do? He has come to Heal the broken hearted. He has come to save, to restore us to friendship with God. And when we experience that we will rejoice.

3. He’s anointed “to proclaim liberty to the captives and release to the prisoners.”
Captivity means to be imprisoned. It's one of the great metaphors for sin in the Bible. The soul is meant to fly. The soul is meant to reach out to the wider world in relationship in love. The soul is meant to reach out finally to God. What does Sin do? St. Augustine calls it being “Incurvatus in se.” It means “caved in on myself.” I'm not seeking relationship and friendship with God. I'm so preoccupied with my own little concerns that I've caved in around myself, and I've locked myself thereby into a prison. It is not a literal prison. But this spiritual prison that all of us sinners are in. Many people are caught in an addictive pattern. You can't break out. The Messiah has come to liberate us from all these forms of self-imposed imprisonment. On the cross Christ becomes sin so as to bring the Divine Mercy and forgiveness, and liberation even into those darkest places. All of us sinners are to varying degrees in prison and addiction, because all sin is a type of addiction.
So, pray to the Lord: “Lord, I know I'm in prison, and so I'm awaiting the good news that you've come to liberate me.” And therefore “Gaudete!” Rejoice! May God bless us all.


2023年12月11日月曜日

デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)による待降節の黙想会

      待降節の黙想会
      Advent Retreat
      2023年12月10日


 イザヤ 63章 17節、64章 4節

63:17 なにゆえ主よ、あなたはわたしたちをあなたの道から迷い出させわたしたちの心をかたくなにしてあなたを畏れないようにされるのですか。

64:4 喜んで正しいことを行いあなたの道に従って、あなたを心に留める者をあなたは迎えてくださいます。あなたは憤られました、

   わたしたちが罪を犯したからです。

   しかし、あなたの御業によってわたしたちはとこしえに救われます。


 待降節は、四旬節と同じように、悔い改めの季節です。待降節を過ごすことは、救い主の到来に備えることです。それは私たちが救い主を必要としているのを感じることです。私たちは常に救い主の必要性を感じなければなりません。もしその必要性を感じなければ、イエス様はただの興味深い人物か、偉大な道徳の教師にすぎません。イエス様は私たちをあらゆる悪から救ってくださる救い主です。わたしたちは救い主の助けが必要であることを認識すべきです。もし私たちが、自分は大丈夫、霊的にもうまくいっている、問題は自分で解決できると確信しているのであれば、救い主を受け入れる心構えができているとは思えません。  預言者イザヤは旧約聖書に登場する待降節の偉大な人物です。 イザヤ 63章 17, 64章4。この箇所は私たち皆さんにとって黙想の素晴らしい点だと思います。予言者イザヤのこの箇所から「道、心、神の憤り」という三つのイメージを選びました。それぞれのイメージは、喪失感、痛み、無力感をもたらします。 これらのイメージの雰囲気に浸るまでは、救い主を待ち望むことがどのような感じかわかりません。それで、これらのイメージを考え、そのうちの 一つまたは 二つが自分に当てはまり、「そうです、私はそう感じている」と言うでしょう。そしてそのように考えるようになったら、私たちは救い主を迎えるために心を開いていると言えます。

1. 道

「主よ、なぜ私たちをあなたの道から迷い出させるのですか?」

 これは聖書の中に出てくる古代のイメージです。真っ直ぐな道、あるいは正しい道。まっすぐな道を歩む、あるいは正しい道を歩き続けるということは、自分がどこへ向かっているのかを知ることです。したがって、罪は正しい道から外れることです。罪は私たち迷わせます。 私たちが知るべき道に迷い、その道を知らなくなってしまいます。もうどこに行けばいいのかわかりません。現代では GPS(カーナビ)システムのおかげで、道に迷うことは少なくなったと思います。 GPSシステムが登場するずっと前、運転を始めたときのことを覚えている人もいるでしょう。 地図や誰かが書いた道順を頼りに道に迷ってしまったことがあると思います。車は順調に進んでいることは分かっていますが、どこへ向かっているのかも分からず、この問題を解決する方法も分からなかったこともありました。 おそらく年配の方はそのような経験があったと思います。しかし今では、GPSシステムのおかげで、どこにいても目的地まで案内してくれるようになりました。 何年も前、私はそのような状況にあったことを覚えています。道に迷ってしまい、大変困りました。 18年前、私が埼玉や栃木で運転を習っていた頃は、運転にあまり慣れておらず、町のこともよく知りませんでした。 ある日、目的地を探して車を運転していたとき、高速道路の入口を間違えてしまい、どうすればいいのか分かりませんでした。結局、なんとか目的地に到着しました。そのような雰囲気に入り込むことが預言者イザヤの指摘であり、私は神に至る道から迷っているということです。そしてもとに戻る方法もわかりません。そのような霊的な経験に入ると、私たちは救い主を待ち望み始めます。


2. 心

 「わたしたちの心をかたくなにして, あなたを畏れないようにされるのですか。」

 心は英語でハートといいます。それはここでは肉体的な器官のことである心臓を意味するのではなく、人間の生きる力である核心(core)のことを意味します。 私たちに心があるのは神にも心があるからです。ダビデは神の「心にかなった者」(使徒13:22)でした。 それが心です。 問題は、私たちが頑なな心を持っています。 神は、私たちが神の子供とキリストの弟子となるように、私たちの心を形作ることを望んでおられるのです。 神は私たちの存在の核を形作ることを望んでおられます。それは、私たちが神の御心に従って生きるような人間になるためです。 聖パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と言っています。これは心の優しい人のことです。 つまり、神が形づくれることのできる柔らかな心を意味します。心が硬いということは、心がもろい粘土のようになるということです。それで、神がそのような心を形作ろうとすると、心は砕け散ります。私たちの心は柔らかい粘土のようなものでないといけません。それで、神様はそのような心を自分の望みのように形作ろうされます。神様が望んでおられるのは、しなやかな心です。このような心は神様によって形作られるのです。この待降節に、私たちは心のかたくなさの経験を振り返ってみましょう。私たちは神の望みに何度抵抗してきたでしょうか。 私たちは皆罪人であるため、もし私の心がかたくなであれば、私がどんなに努力をしてもそれを和らげることはできません。私に必要なのは恵みです。もろい心を和らげてくれる聖なる雨、即ち神の恵みが私には必要なのです。


3: 神の憤り。これは第三番目のイメージです。

 「あなたは憤られました。わたしたちが罪を犯したからです。」

 子供の頃、私は神の怒りという考えに対してある種の反感を持って育ちました。私たちは神が怒っているなどとは決して想像したくないですよね。そのような考え方は昔の霊性でした。しかし、言っておきますが、聖書では神の怒りを避けることはできません。聖書では神の怒りについて頻繁に言及されています。しかし、それは神が何らかの否定的な感情状態に陥っているという意味ではありません。ですから、私たちが怒るのと同じように神も怒ると考えないでください。神様はそんな風には怒らないです。 神の憤りは、物事を正そうとする神の情熱を表します。私たちは罪人として神の怒りを感じます。なぜなら、私たちは自分が正しくない道を歩んでいること、そして自分の心がかたくなになっていることを知っているからです。私たちは自分たちが神のご意思に従うような人間ではないことを知っています。そのとき、私たちが神を経験するとき、神が私たちに対して怒っていることを経験します。繰り返しますが、言葉を感情的にして神を機能不全の父に変えないようにしましょう。私たち罪人にとって罪の状況は、私たちに対する神の怒りと神からの疎外に気づいていないことです。神の怒りは、私たちが悪魔の手から救われるように、私たちを正し、正しい道に導こうとしているということです。 待降節は、自分が神様の望みのように生きている人間ではないという事実を知るのに最適な時期です。だからこそ、神は私たちの中で物事を正そうとする情熱を持っておられるのです。私もあなたも正しい人間なら、それでは誰が救い主を必要としているでしょうか?私が大丈夫であなたも大丈夫なら、誰が神を必要としますか。私たちは物事がうまくいかないことを何度も経験しますが、神は物事を正しくしたいと望んでおられます。このことを認めるなら、救い主の到来に心構えができていると言えます。自分の弱さと罪を神の前に認めて、私たちの救い主イエス・キリストを待ち望みましょう。神の祝福がありますように。


 自分の弱さと罪を神の前に

 認めて、救い主イエス・キリ

 ストとの幸せな出会いを望み

 ましょう。








 Isaiah 63:17, 64:17

 Why do you let us wander, O LORD, from your ways,and harden our hearts so that we fear you not?

 64:17

 No ear has ever heard, no eye ever seen, any God but you

 doing such deeds for those who wait for him.

 Would that you might meet us doing right,

 that we were mindful of you in our ways!

 Behold, you are angry, and we are sinful.


 The season of Advent, like Lent, is properly a penitential season. To enter into Advent is to prepare for the coming of the Savior. It is to enter into our need for a savior. We have to feel our need for a savior. If we don't feel the need, then Jesus is just an interesting figure or a great ethical teacher. Jesus is the Savior who saves us from all evil. It’s to recognize our need for help. If you're convinced that you're OK and in the spiritual order, you can solve this problem yourself, you're not ready for the coming of the savior.


 The prophet Isaiah is the great Old Testament Advent figure. Isaiah 63:17, 64:4, I think it's abeautiful point of meditation for all of us. From this passage, I selected three images, such as “ Way, Heart and God’s anger.” Each one is meant to evoke the sense of loss and pain and helplessness. Until we enter into the power of these images, we won't know what it's like to long for the Savior. So, what I want to do, is to look at this series of images, and my hope is that one or two of them maybe will speak to you that you'll say, yes that’s what how I feel. And when that happens, you're getting ready for the savior.


 Path or Way :

 “Why do you let us wander, oh Lord, from your ways?”


 That's an ancient image. The Straight path or the Right Path. To be on the straight path or to walk on the right path is to know where you're going. Therefore, sin is a wandering off that path. It's getting lost. The path that we should know, we’velost track of it. we don't know anymore where we're going. This probably happens less today because of GPS systems. Some of you will remember in your early years of driving, so long before the GPS systems. You relied on maps or someone’s written directions that you'd find yourself lost. You know you're going along, the cars are working fine, and you're moving along, but you suddenly realize that you don't know where you are going and don't even know how to correct this problem. Probably older people remember that feeling. But now, because of GPS system, wherever I am, it'll get me out. But years ago, I remember being in those situations. I'm lost and I don't know how to fix the problem. 18 years ago, when I was learning how to drive in Saitama and Tochigi. So, I didn't know the city that well. And on one day I was driving, looking for my destination, mistakenly entered an expressway entrance and I just didn't know what to do. Eventually I reached my destination omehow. To enter into that feeling. That's the prophet Isaiah 's point that that I I've wandered from the path that leads me to God. And I don't know how to get backon it. When you enter into that spiritual space, you start longing for a savior.


2. The Heart.

 Here's the second image from Is The heart.

 “Why do you let us harden our hearts so that we fear you not?”


 The heart doesn't mean the physical organ so much here, but the core of your person. That's the heart. What's the problem is a hard heart. Because God wants to shape our hearts so that we become his children and his followers. God wants to shape the core of us. so that we can be the people He wants us to be. When Saint Paul says, it's no longer I who live. It's Christ who lives in me. That's someone who has a soft heart here. I mean soft, so that God can shape it. Hardness of heart means my heart become like brittle clay. And so, when God tries to shape it, the heart shatters. What God desires is a supple heart. A heart that is ready to be shaped. This Advent let us reflect on that experience of hardness of heart. Are you resistant to what God wants you to do and wants you to be? If the heart is hard, as all of us sinners, I can't soften it through my own efforts. What do I need? I need grace. I need the incoming of that of that sacred rain that will soften the brittle heart.


3: God’s anger;

 Here's a third image from Isaiah. “Behold, you are angry and we are sinful.

 My generation was brought up with a sort of antipathy to the idea of God's anger. We never wanted to imagine God is angry. That was old fashioned spirituality. But Let me tell you, you can't avoid the anger of God in the Bible. It's on practically every other page of the Bible, is some reference to God's anger.  But , it doesn't mean that God's fallen into some negative emotional state. So, don't think of it, as the way we become angry. God is not angry as we get angry sometimes. It's a metaphor to express God's passion to set things right. What we sinners properly feel is the anger of God, because we know that we're on the wrong path, we know our hearts have been hardened. We know that we're not the people that God wants us to be. And so, when we experience God, we experience him as angry with us. Again, let us not emotionalize the language and turn God into a dysfunctional father. For us sinners, the bad state of affairs is, we're not aware of God's anger with us and our alienation from God. God’s anger means he wants to correct us and bring us on the right track, so that we may be saved from the clutches of the devil.

 Advent is a great time to get in touch with the fact that we're not the people God wants us to be. And that’s why, God has got a passion to set things right in us. If I'm OK and you're OK. Then who needs a savior? Who needs God, if I'm OK and you're OK.Things are off kilter with us and we experience God as angry, as desirous of setting things right. Move into that space and you're getting yourself ready for the coming of the Savior. Let us long for God, Jesus our savior by admitting our weaknesses and sins before Him. God Bless you.


 Let's admit our weaknesses and sins before God, and

 look forward for a happy encounter with our Savior,

 Jesus Christ.


2023年12月4日月曜日

デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)の説教

  待降節の第一主日

 今日は待降節の第一主日であり、典礼暦では新しい年の始まりです。新年のお祝いと同じように、待降節にも私たちは霊的な基本に立ち返り、再出発することが重要です。待降節に入ると、最も有名な賛美歌を思い出します。「久しく待ちにし 主よ、とく来たりて、み民のなわめを 解き放ちたまえ。」 日々の祈りや個人的な祈りの中で、この賛美歌の言葉を黙想するだけでも待降節を有意義に過ごすことができると思います。

 では、この賛美歌に登場するイメージの背景にはどのようなものがあるのでしょうか。この讃美歌の背景には、古代世界でよく見られた誘拐現象のイメージがあります。誰かが旅に出ることは非常に危険であると考えられていました。特に裕福であれば、旅行中に捕らえられ、身代金を要求される可能性がありました。そして、一度誘拐されて、遠く離れた場所に連れて行かれていました。周りには敵がいて、自分を助ける方法は何もありませんでした。彼らは孤独な亡命先で悲しんでいました。その状況で自分にできることは、忍耐をもって待つこと、そして希望を持つことだけです。そうすれば、誰かが来て、その方の釈放の費用を払ってくれるかもしれません。だからこそ、捕らわれた人は「インマヌエルなる主よ、来てください。捕らわれたイスラエルの民を贖ってください。わびしい囚われの身となっています。神の愛する御子の御顔から遠く離れています。喜べ、インマヌエルなる主があなたのもとに来られる」と祈りの中で叫んでいるのです。 もちろん、「インマヌエル」とは「神が我々と共におられる」という意味です。ですから、遠く離れた国で孤立していた人は、「インマヌエル、すぐ来てお救いください」と祈っていました。
 私は何年も前に家を出て日本に来ました。それは家から遠く離れたところでの経験でした。その時は私も寂しい気持ちになりました。新しい言語である日本語を話すのに苦労しました。そして私にできたのは忍耐と希望を持つことだけでした。 これらすべてを念頭に置いて、第一朗読の最初の言葉を考えてみましょう。 (イザヤ 63:16―17; 64:1,3-8)「主よ、あなたはわたしたちの父です。「わたしたちの贖い主」これは永遠の昔からあなたの御名です。」 イエス様は私たちの贖い主。私たちの救い主です。贖い主は、英語で「Redeemer」と呼ばれ、ラテン語で 「買い戻す」を意味する「redimere」に由来しています。この意味するところは、救い主であるイエス様は私たちを奴隷や捕虜から買い戻すことができるお方だということです。身代金のために捕らわれたときに救い主を呼び求めています。イエス様は私たちを買い戻すことができる唯一の主です。イエス様は私たちを捕らわれの状態からから解放してくださる主です。
 これらすべてを理解する最も良い方法は、依存症について話すことだと思います。アルコール、ポルノ、麻薬、仕事、成功、お金、名声などに依存すると、人生はコントロールできないことになります。それはあたかも自分の目的とは悪魔の力に支配されているかのようです。するべき良いことをしなくなってしまい、避けるべき悪いことをするようになってしまいます。わびしい囚われの身となっているので、自分で問題を解決することさえできないのです。努力をすればするほど、自分自身の鎖をより強く引っ張ることになります。自分の努力で自分を高めようとすると、依存症に深く陥る傾向があります。

 私たちがしなければならないのは、自分の無力を認め、自分の人生を神の力に委ねることです。私たちは完全に道に迷ってしまったことを認める必要があります。私たちは自分自身を救うことができませんが、イエス様は神の聖なる愛を通して私たちに恵みを与えてくださいます。また、イエス様の命、死、復活は、私たちに対する神の計り知れない恵みを表しています。

 神様は私たちに御子イエス・キリストと交わるように招かれています。喜べ、インマヌエル来たりて救いたもう」と叫ぶことしかできない捕らわれた人である私たちは、今日、神の恵みと希望の言葉を聞きました。それこそが私たちが参入しようとしている待降節の領域です。神の御恵みと祝福がありますように。


  First Sunday of Advent

    Today we begin the Advent season, the beginning of the liturgical year. And like New Year's celebrations, it is important for us to get back to our spiritual basics to start again. Every time Advent rolls around, I remind myself about the most famous hymn of our Advent season, “O Come, O Come, Emmanuel and redeem thy captive Israel, that mourns in lonely exile here, until the Son of God appear.” I think we can spend our whole Advent just musing on those lines in our private prayers.
 So, what's the setting for this image in this song? The setting for the image is the phenomenon of kidnapping which was quite common in the ancient world. Somebody would be on the road to be travelling and that's one reason, travel was considered so dangerous. Because you could be captured and held for ransom, especially if you're a relatively wealthy person, they would target you. And once you were kidnapped and you were taken away, maybe to a distant land. You’ve got enemies around you. You have no means of helping yourself. You’re mourning in lonely exile. All you could do in that situation wait, watch, and hope. So that, someone might come and pay for your release. That's why, the person who was held captive, says “O Come, O Come Emmanuel.” And of course, “Emmanuel” means “God with us.” So, if someone longing for God, if someone who feels isolated, separated in a different and a distant country, that person cries: “Oh come, O Come, Emmanuel and ransom captive Israel.” When I had left home, especially when I came to Japan many years ago. That was the experience of being a long way from home. I was feeling lonely. I was struggling to speak Japanese language. And all I could do is hope, wait and watch.
 With all this in mind, let us listen to the opening lines of our first reading. (Is 63:16b—17; 64:1,3-8) “You, LORD, are our father, our redeemer you are named forever.” Redeemer is a kind of religious term. Jesus is our Redeemer or our savior. The English word Redeemer is derived from a Latin term, “redimere”, which means to buy back. The implication is that God is best named as the one who can buy us back from slavery or captivity. We were held for ransom and now we're calling upon God the Father. You're the one Lord who can buy us back. You can release us from our captivity.
 The best way I think, for us today to understand all of this, is to speak of addiction. When you're addicted to alcohol, or addicted to pornography or to drugs, or to work, or to your own success, or to money or to fame, whatever it is. When you're addicted to those things, you are out of control. It's as though you're in the grip of a power that is alien to your purposes. The good that I would do, that's what I don't do. The evil that I would avoid, that's what I do. Because, I've been held captive, I cannot even in principle solve the problem myself. The more you try on your own efforts, that tighter you pull those chains around yourself. As long as he tries to lift himself up by his own bootstraps, the deeper he tends to fall into his addiction.
 What we need to do is to admit our powerlessness and turn our life over to the higher power of God. We’re completely lost. We are incapable of saving ourselves, but Jesus gives us with the divine love, his life, his death, his rising from the dead represents God's unmerited favor to us. God invites us to have a fellowship with his Son Jesus Christ our Lord. We who are captive who can only cry out, “oh come, O Come, Emmanuel”. We have heard now the good news, the word of grace. That’s the advent’s space we're meant to move into. God Bless you all.