2023年12月23日土曜日

フランシスカン・ベツレヘム - グレッチョ

                   Fr デソーザ・ジョンソン(OFMcap)

 今年、私たちはグレッチョのクリスマス 800 周年をお祝いします。イタリアの小さな町グレッチョには、パレスチナの小さな町ベツレヘムに似たスピリチュアルな雰囲気があります。グレッチョはフランシカン・ベツレヘムとしてよく知られています。
 1223年にアッシジの聖フランシスコが最初の飼い葉桶を作ったのはこのグレッチョです。今日、飼い葉桶(馬小屋)を作る伝統は、主の降誕をお祝いする一部となっています。アシジの聖フランシスコにとって、神の御子イエスの受肉の神秘である御降誕は、神の深い謙虚さの驚くべき出来事でした。聖フランシスコの深い憧れの一つは、御子の真の貧しさと謙虚さを自分の目で見て、経験したかったのです。
 1223年、主の降誕の祝日に、聖フランシスコは創造的な想像力で、神の御子の受肉の神秘を観想し祝うために、キリストの誕生をご聖体の祭儀の中で再現しました。 1223年に初めて飼い葉桶が作られたとき、動物の像はありませんでした。そこには牛とロバと干し草しかありませんでした。
 荘厳な聖なる夜、聖なる方であるアシジのフランシスコは素晴らしい幻を見ました。聖なる幼子が飼い葉桶に寝ていました。聖フランシスコはこの聖なる幼子を腕に抱きました。そしてその子はベツレヘムの幼子イエスでした。グレッチョは新しいベツレヘムに変わりました。

  This year we celebrate the 800th anniversary of Christmas at of Greccio. Greccio a small town of Italy has a spiritual atmosphere similar to holy town of Bethlehem. Greccio is better known as Franciscan Bethlehem.
  It was at Greccio that St. Francis of Assisi prepared the first manger (crib) in 1223. Today, the tradition of making mangers is the part of the Christmas. For St. Francis of Assisi, the Nativity of the Lord Jesus, the mystery of the Incarnation of the Son of God, was an amazing event of God's profound humility. One of St. Francis' deepest longings was to see and experience for himself the true humility of God.
  In 1223, on the Feast of the Nativity of the Lord, St. Francis used his creative imagination to recreate the Nativity scene in the celebration of the Eucharist, in order to contemplate and celebrate the mystery of the Incarnation of the Son of God. When the manger was first prepared in 1223, there were no statues. There were only cow and ass and hay.
  On the night of the solemn celebration, the Holy man of God, St. Francis had a wonderful vision. The holy child was lying in a manger. St. Francis held this holy infant in his arms. And that child was the infant Jesus of Bethlehem. Greccio turned into a new Bethlehem.
アシジの聖フランシスコ (St Francis of Assisi)
誕生Born 1181.
死去Died 1226.

2023年12月19日火曜日

「神の道化師、フランチェスコ」上映の紹介

「神の道化師、フランチェスコ」(ロベルト・ロッセリーニ監督、ロッセリーニとフェデリコ・フェリーニの共同脚本)のデジタル・リマスター版が上映されます。 12月22日(金)より、東京から始まり順次全国のいくつかの地域の劇場で上演されます。 詳しくは下記のサイトをご覧ください。

   オフィシャルサイト→https://francesco-gd.com/ 
   X(旧Twitter)→@Francesco1222rr

 上映劇場
  仙台市 フォーラム仙台 2024/1/12(金)~
  新宿区 シネマカリテ 2023/12/22(金)~
  横浜市 横浜シネマリン 近日公開
  川崎市アートセンター 近日公開
  名古屋市 ナゴヤキネマ・ノイ 近日公開
  大阪市 シネ・リーブル梅田 近日公開
  京都市 京都シネマ 近日公開
  神戸市 Cinema KOBE 近日公開
  広島市 横川シネマ 近日公開
  福岡市 KBCシネマ 近日公開

2023年12月18日月曜日

デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)の説教

     待降節の第三主日








 待降節の第三主日は伝統的に「ガウデテ・サンディ」と呼ばれています。「喜びの日曜日」という意味です。ガウデテ(Gaudete) はラテン語の命令形です。「喜びなさい!」ということです。「主によってよろこびなさい。」 教会は私たちに「喜びなさい」と言い、第一朗読(イザヤ書 61:1-2、10-11)で私たちが喜ぶべき理由を教えてくださいます。 「メシア」即ち「救い主」とはイエスご自身です。 イエス様は宣教活動を始める前に、会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになって、預言者イザヤの巻物をお開きになると、次のように書いてある個所が目に留まりました。(イザヤ書 61:1-2、10-11、ルカ4:18)

1.「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。貧しい人に良い知らせを伝えさせるためにわたしを遣わされました。」
 「良い知らせ」 - 貧しい人々にとって喜ばしい知らせを意味します。イエス様は生涯をかけて貧しい人々に手を差し伸べました。 ここで、経済的に貧しい人だけではなく、心の貧しい人々のことも含まれています。確かに、イエス様の山上の説教の中で、「心の貧しい人々は幸いである」という言葉を聞きますが、心の貧しいとはどういう意味でしょうか。彼らは神から遠く離れ、人生の意味や目的を失った人々でした。 イエス様の生涯は、経済的に貧しい人々だけでなく、霊的に貧しい人々にも良い知らせを伝えることでした。 -だからこそ、私たちは喜ぶのです。

2.「打ち砕かれた心を。」 打ち砕かれた心を癒すために油そそがれました。
 私たちはハートブレイクあるいは失恋や傷心を一種の感情的苦しみとして話します。しかし、聖書の「心」とは、人間の存在の最も深い中心を意味します。それはおそらく「魂」という意味するものに近いでしょう。それはまさに人間の核心です。人間関係、家族、仕事など、私たちが取り組んでいることすべてについて考えてください。しかし、そのすべての根底には心があります。そして心は神と結びついています。それで、打ち砕かれた心の人は誰ですか?それは私たち全員です。心が神から疎外されている私たちは皆、心の中で深い悲しみを経験します。イエスは何をしに来られたのでしょうか?打ち砕かれた心,即ち傷ついた心を癒すために来られました。イエス様は私たちを救い、神との友情を回復するために来られました。それを経験すると、私たちは喜ぶでしょう。

3.「捕らわれ人には自由を,つながれている人には解放を告知させるために。」
 イエス様は捕らわれた人に解放するために油を注がれました。 「捕らわれている」とは聖書の中で罪を表します。魂は天使のように飛ぶためのものなのです。魂は神の愛の関係の中でより広い世界に手を伸ばし、最終的には神に到達します。罪とは何ですか? 聖アウグスティヌスはそれを「Incurvatus in se」と呼んでいます。 “Incurvatus in se” ラテン語で「自分自身の中で曲がった/湾曲した」という意味です。神や他人の「外側」ではなく、自分自身の「内側」で生きる人生を表します。私は神との関係や友情を求めていないということです。私は自分自身の不安や心配に気を取られすぎて、それによって自分自身を自分の中に閉じ込めています。私たち罪人は皆、この霊的な牢獄の中にいるようなものです。多くの人が中毒や依存症に陥っています。その状態から出ることはできません。私たちの救い主であるイエスは、私たちをこうしたあらゆる形態の捕らわれの状態から解放するために来られました。キリストは十字架上で、神のあわれみと赦しをもたらし、最も暗い場所にも光と救いをもたらして下さいました。イエス様のあわれみを経験すると、私たちは喜ぶでしょう。
 ですから、主に祈りましょう。「主よ、私は捕らわれの状態にいることを知っています。ですから私を解放するためにあなたが来られた」という良い知らせを聞きます。したがって、「ガウデテ!」喜びなさい!


     Third Sunday of advent

The third Sunday of Advent is traditionally called “Gaudete Sunday.” Gaudete is a Latin imperative. It's a command. So, the Church is telling us to be happy and it gives us in the first reading (Isaiah 61:1-2, 10-11), the reasons why we should rejoice. “The Messiah” and of course, it's Jesus himself who confirms this interpretation. Because at the beginning of his public life, when he gets up in the synagogue and it's his prerogative to choose the Scripture text and to comment upon it. Jesus precisely chooses this text (Luke 4:18, Is 61:1-2) that we're reading on Gaudete Sunday.

1. “The Spirit of the Lord is upon me, He has anointed me, and He has sent me to bring glad tidings to the poor.
“Glad tidings” - it means good news to the poor. Jesus spends reaching out to those who are poor. But he is also talking about the spiritually poor? Indeed, we hear that, in the gospels, in the Sermon of mount, “Blessed are the poor in spirit” What does that mean to be poor in spirit? And what he meant was those who are far from God, those who have lost the sense of meaning and purpose. Jesus’ life was all about announcing good news not only to those who are economically poor but also to the existentially poor. -That's why we rejoice, because all of us who are poor to varying degrees have been addressed by this good news.

2. He's anointed “to heal the brokenhearted.”
We speak of heartbreak as a kind of emotional suffering. But “the heart” in the Bible means that deepest center of thought and feeling and action. It's closer probably what we mean by the word “soul.” It's the very center of a person. Think of all the various things we’re engaged in: our relationships, our families, our work and all that we do. But at the ground of all of that, there's the heart. And the heart is meant to be in union with God. So, who are the broken hearted? It's all of us. All of us who's hearts have been alienated from God, and therefore we experience a deep sadness in our hearts. What's Jesus come to do? He has come to Heal the broken hearted. He has come to save, to restore us to friendship with God. And when we experience that we will rejoice.

3. He’s anointed “to proclaim liberty to the captives and release to the prisoners.”
Captivity means to be imprisoned. It's one of the great metaphors for sin in the Bible. The soul is meant to fly. The soul is meant to reach out to the wider world in relationship in love. The soul is meant to reach out finally to God. What does Sin do? St. Augustine calls it being “Incurvatus in se.” It means “caved in on myself.” I'm not seeking relationship and friendship with God. I'm so preoccupied with my own little concerns that I've caved in around myself, and I've locked myself thereby into a prison. It is not a literal prison. But this spiritual prison that all of us sinners are in. Many people are caught in an addictive pattern. You can't break out. The Messiah has come to liberate us from all these forms of self-imposed imprisonment. On the cross Christ becomes sin so as to bring the Divine Mercy and forgiveness, and liberation even into those darkest places. All of us sinners are to varying degrees in prison and addiction, because all sin is a type of addiction.
So, pray to the Lord: “Lord, I know I'm in prison, and so I'm awaiting the good news that you've come to liberate me.” And therefore “Gaudete!” Rejoice! May God bless us all.


2023年12月11日月曜日

デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)による待降節の黙想会

      待降節の黙想会
      Advent Retreat
      2023年12月10日


 イザヤ 63章 17節、64章 4節

63:17 なにゆえ主よ、あなたはわたしたちをあなたの道から迷い出させわたしたちの心をかたくなにしてあなたを畏れないようにされるのですか。

64:4 喜んで正しいことを行いあなたの道に従って、あなたを心に留める者をあなたは迎えてくださいます。あなたは憤られました、

   わたしたちが罪を犯したからです。

   しかし、あなたの御業によってわたしたちはとこしえに救われます。


 待降節は、四旬節と同じように、悔い改めの季節です。待降節を過ごすことは、救い主の到来に備えることです。それは私たちが救い主を必要としているのを感じることです。私たちは常に救い主の必要性を感じなければなりません。もしその必要性を感じなければ、イエス様はただの興味深い人物か、偉大な道徳の教師にすぎません。イエス様は私たちをあらゆる悪から救ってくださる救い主です。わたしたちは救い主の助けが必要であることを認識すべきです。もし私たちが、自分は大丈夫、霊的にもうまくいっている、問題は自分で解決できると確信しているのであれば、救い主を受け入れる心構えができているとは思えません。  預言者イザヤは旧約聖書に登場する待降節の偉大な人物です。 イザヤ 63章 17, 64章4。この箇所は私たち皆さんにとって黙想の素晴らしい点だと思います。予言者イザヤのこの箇所から「道、心、神の憤り」という三つのイメージを選びました。それぞれのイメージは、喪失感、痛み、無力感をもたらします。 これらのイメージの雰囲気に浸るまでは、救い主を待ち望むことがどのような感じかわかりません。それで、これらのイメージを考え、そのうちの 一つまたは 二つが自分に当てはまり、「そうです、私はそう感じている」と言うでしょう。そしてそのように考えるようになったら、私たちは救い主を迎えるために心を開いていると言えます。

1. 道

「主よ、なぜ私たちをあなたの道から迷い出させるのですか?」

 これは聖書の中に出てくる古代のイメージです。真っ直ぐな道、あるいは正しい道。まっすぐな道を歩む、あるいは正しい道を歩き続けるということは、自分がどこへ向かっているのかを知ることです。したがって、罪は正しい道から外れることです。罪は私たち迷わせます。 私たちが知るべき道に迷い、その道を知らなくなってしまいます。もうどこに行けばいいのかわかりません。現代では GPS(カーナビ)システムのおかげで、道に迷うことは少なくなったと思います。 GPSシステムが登場するずっと前、運転を始めたときのことを覚えている人もいるでしょう。 地図や誰かが書いた道順を頼りに道に迷ってしまったことがあると思います。車は順調に進んでいることは分かっていますが、どこへ向かっているのかも分からず、この問題を解決する方法も分からなかったこともありました。 おそらく年配の方はそのような経験があったと思います。しかし今では、GPSシステムのおかげで、どこにいても目的地まで案内してくれるようになりました。 何年も前、私はそのような状況にあったことを覚えています。道に迷ってしまい、大変困りました。 18年前、私が埼玉や栃木で運転を習っていた頃は、運転にあまり慣れておらず、町のこともよく知りませんでした。 ある日、目的地を探して車を運転していたとき、高速道路の入口を間違えてしまい、どうすればいいのか分かりませんでした。結局、なんとか目的地に到着しました。そのような雰囲気に入り込むことが預言者イザヤの指摘であり、私は神に至る道から迷っているということです。そしてもとに戻る方法もわかりません。そのような霊的な経験に入ると、私たちは救い主を待ち望み始めます。


2. 心

 「わたしたちの心をかたくなにして, あなたを畏れないようにされるのですか。」

 心は英語でハートといいます。それはここでは肉体的な器官のことである心臓を意味するのではなく、人間の生きる力である核心(core)のことを意味します。 私たちに心があるのは神にも心があるからです。ダビデは神の「心にかなった者」(使徒13:22)でした。 それが心です。 問題は、私たちが頑なな心を持っています。 神は、私たちが神の子供とキリストの弟子となるように、私たちの心を形作ることを望んでおられるのです。 神は私たちの存在の核を形作ることを望んでおられます。それは、私たちが神の御心に従って生きるような人間になるためです。 聖パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と言っています。これは心の優しい人のことです。 つまり、神が形づくれることのできる柔らかな心を意味します。心が硬いということは、心がもろい粘土のようになるということです。それで、神がそのような心を形作ろうとすると、心は砕け散ります。私たちの心は柔らかい粘土のようなものでないといけません。それで、神様はそのような心を自分の望みのように形作ろうされます。神様が望んでおられるのは、しなやかな心です。このような心は神様によって形作られるのです。この待降節に、私たちは心のかたくなさの経験を振り返ってみましょう。私たちは神の望みに何度抵抗してきたでしょうか。 私たちは皆罪人であるため、もし私の心がかたくなであれば、私がどんなに努力をしてもそれを和らげることはできません。私に必要なのは恵みです。もろい心を和らげてくれる聖なる雨、即ち神の恵みが私には必要なのです。


3: 神の憤り。これは第三番目のイメージです。

 「あなたは憤られました。わたしたちが罪を犯したからです。」

 子供の頃、私は神の怒りという考えに対してある種の反感を持って育ちました。私たちは神が怒っているなどとは決して想像したくないですよね。そのような考え方は昔の霊性でした。しかし、言っておきますが、聖書では神の怒りを避けることはできません。聖書では神の怒りについて頻繁に言及されています。しかし、それは神が何らかの否定的な感情状態に陥っているという意味ではありません。ですから、私たちが怒るのと同じように神も怒ると考えないでください。神様はそんな風には怒らないです。 神の憤りは、物事を正そうとする神の情熱を表します。私たちは罪人として神の怒りを感じます。なぜなら、私たちは自分が正しくない道を歩んでいること、そして自分の心がかたくなになっていることを知っているからです。私たちは自分たちが神のご意思に従うような人間ではないことを知っています。そのとき、私たちが神を経験するとき、神が私たちに対して怒っていることを経験します。繰り返しますが、言葉を感情的にして神を機能不全の父に変えないようにしましょう。私たち罪人にとって罪の状況は、私たちに対する神の怒りと神からの疎外に気づいていないことです。神の怒りは、私たちが悪魔の手から救われるように、私たちを正し、正しい道に導こうとしているということです。 待降節は、自分が神様の望みのように生きている人間ではないという事実を知るのに最適な時期です。だからこそ、神は私たちの中で物事を正そうとする情熱を持っておられるのです。私もあなたも正しい人間なら、それでは誰が救い主を必要としているでしょうか?私が大丈夫であなたも大丈夫なら、誰が神を必要としますか。私たちは物事がうまくいかないことを何度も経験しますが、神は物事を正しくしたいと望んでおられます。このことを認めるなら、救い主の到来に心構えができていると言えます。自分の弱さと罪を神の前に認めて、私たちの救い主イエス・キリストを待ち望みましょう。神の祝福がありますように。


 自分の弱さと罪を神の前に

 認めて、救い主イエス・キリ

 ストとの幸せな出会いを望み

 ましょう。








 Isaiah 63:17, 64:17

 Why do you let us wander, O LORD, from your ways,and harden our hearts so that we fear you not?

 64:17

 No ear has ever heard, no eye ever seen, any God but you

 doing such deeds for those who wait for him.

 Would that you might meet us doing right,

 that we were mindful of you in our ways!

 Behold, you are angry, and we are sinful.


 The season of Advent, like Lent, is properly a penitential season. To enter into Advent is to prepare for the coming of the Savior. It is to enter into our need for a savior. We have to feel our need for a savior. If we don't feel the need, then Jesus is just an interesting figure or a great ethical teacher. Jesus is the Savior who saves us from all evil. It’s to recognize our need for help. If you're convinced that you're OK and in the spiritual order, you can solve this problem yourself, you're not ready for the coming of the savior.


 The prophet Isaiah is the great Old Testament Advent figure. Isaiah 63:17, 64:4, I think it's abeautiful point of meditation for all of us. From this passage, I selected three images, such as “ Way, Heart and God’s anger.” Each one is meant to evoke the sense of loss and pain and helplessness. Until we enter into the power of these images, we won't know what it's like to long for the Savior. So, what I want to do, is to look at this series of images, and my hope is that one or two of them maybe will speak to you that you'll say, yes that’s what how I feel. And when that happens, you're getting ready for the savior.


 Path or Way :

 “Why do you let us wander, oh Lord, from your ways?”


 That's an ancient image. The Straight path or the Right Path. To be on the straight path or to walk on the right path is to know where you're going. Therefore, sin is a wandering off that path. It's getting lost. The path that we should know, we’velost track of it. we don't know anymore where we're going. This probably happens less today because of GPS systems. Some of you will remember in your early years of driving, so long before the GPS systems. You relied on maps or someone’s written directions that you'd find yourself lost. You know you're going along, the cars are working fine, and you're moving along, but you suddenly realize that you don't know where you are going and don't even know how to correct this problem. Probably older people remember that feeling. But now, because of GPS system, wherever I am, it'll get me out. But years ago, I remember being in those situations. I'm lost and I don't know how to fix the problem. 18 years ago, when I was learning how to drive in Saitama and Tochigi. So, I didn't know the city that well. And on one day I was driving, looking for my destination, mistakenly entered an expressway entrance and I just didn't know what to do. Eventually I reached my destination omehow. To enter into that feeling. That's the prophet Isaiah 's point that that I I've wandered from the path that leads me to God. And I don't know how to get backon it. When you enter into that spiritual space, you start longing for a savior.


2. The Heart.

 Here's the second image from Is The heart.

 “Why do you let us harden our hearts so that we fear you not?”


 The heart doesn't mean the physical organ so much here, but the core of your person. That's the heart. What's the problem is a hard heart. Because God wants to shape our hearts so that we become his children and his followers. God wants to shape the core of us. so that we can be the people He wants us to be. When Saint Paul says, it's no longer I who live. It's Christ who lives in me. That's someone who has a soft heart here. I mean soft, so that God can shape it. Hardness of heart means my heart become like brittle clay. And so, when God tries to shape it, the heart shatters. What God desires is a supple heart. A heart that is ready to be shaped. This Advent let us reflect on that experience of hardness of heart. Are you resistant to what God wants you to do and wants you to be? If the heart is hard, as all of us sinners, I can't soften it through my own efforts. What do I need? I need grace. I need the incoming of that of that sacred rain that will soften the brittle heart.


3: God’s anger;

 Here's a third image from Isaiah. “Behold, you are angry and we are sinful.

 My generation was brought up with a sort of antipathy to the idea of God's anger. We never wanted to imagine God is angry. That was old fashioned spirituality. But Let me tell you, you can't avoid the anger of God in the Bible. It's on practically every other page of the Bible, is some reference to God's anger.  But , it doesn't mean that God's fallen into some negative emotional state. So, don't think of it, as the way we become angry. God is not angry as we get angry sometimes. It's a metaphor to express God's passion to set things right. What we sinners properly feel is the anger of God, because we know that we're on the wrong path, we know our hearts have been hardened. We know that we're not the people that God wants us to be. And so, when we experience God, we experience him as angry with us. Again, let us not emotionalize the language and turn God into a dysfunctional father. For us sinners, the bad state of affairs is, we're not aware of God's anger with us and our alienation from God. God’s anger means he wants to correct us and bring us on the right track, so that we may be saved from the clutches of the devil.

 Advent is a great time to get in touch with the fact that we're not the people God wants us to be. And that’s why, God has got a passion to set things right in us. If I'm OK and you're OK. Then who needs a savior? Who needs God, if I'm OK and you're OK.Things are off kilter with us and we experience God as angry, as desirous of setting things right. Move into that space and you're getting yourself ready for the coming of the Savior. Let us long for God, Jesus our savior by admitting our weaknesses and sins before Him. God Bless you.


 Let's admit our weaknesses and sins before God, and

 look forward for a happy encounter with our Savior,

 Jesus Christ.


2023年12月4日月曜日

デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)の説教

  待降節の第一主日

 今日は待降節の第一主日であり、典礼暦では新しい年の始まりです。新年のお祝いと同じように、待降節にも私たちは霊的な基本に立ち返り、再出発することが重要です。待降節に入ると、最も有名な賛美歌を思い出します。「久しく待ちにし 主よ、とく来たりて、み民のなわめを 解き放ちたまえ。」 日々の祈りや個人的な祈りの中で、この賛美歌の言葉を黙想するだけでも待降節を有意義に過ごすことができると思います。

 では、この賛美歌に登場するイメージの背景にはどのようなものがあるのでしょうか。この讃美歌の背景には、古代世界でよく見られた誘拐現象のイメージがあります。誰かが旅に出ることは非常に危険であると考えられていました。特に裕福であれば、旅行中に捕らえられ、身代金を要求される可能性がありました。そして、一度誘拐されて、遠く離れた場所に連れて行かれていました。周りには敵がいて、自分を助ける方法は何もありませんでした。彼らは孤独な亡命先で悲しんでいました。その状況で自分にできることは、忍耐をもって待つこと、そして希望を持つことだけです。そうすれば、誰かが来て、その方の釈放の費用を払ってくれるかもしれません。だからこそ、捕らわれた人は「インマヌエルなる主よ、来てください。捕らわれたイスラエルの民を贖ってください。わびしい囚われの身となっています。神の愛する御子の御顔から遠く離れています。喜べ、インマヌエルなる主があなたのもとに来られる」と祈りの中で叫んでいるのです。 もちろん、「インマヌエル」とは「神が我々と共におられる」という意味です。ですから、遠く離れた国で孤立していた人は、「インマヌエル、すぐ来てお救いください」と祈っていました。
 私は何年も前に家を出て日本に来ました。それは家から遠く離れたところでの経験でした。その時は私も寂しい気持ちになりました。新しい言語である日本語を話すのに苦労しました。そして私にできたのは忍耐と希望を持つことだけでした。 これらすべてを念頭に置いて、第一朗読の最初の言葉を考えてみましょう。 (イザヤ 63:16―17; 64:1,3-8)「主よ、あなたはわたしたちの父です。「わたしたちの贖い主」これは永遠の昔からあなたの御名です。」 イエス様は私たちの贖い主。私たちの救い主です。贖い主は、英語で「Redeemer」と呼ばれ、ラテン語で 「買い戻す」を意味する「redimere」に由来しています。この意味するところは、救い主であるイエス様は私たちを奴隷や捕虜から買い戻すことができるお方だということです。身代金のために捕らわれたときに救い主を呼び求めています。イエス様は私たちを買い戻すことができる唯一の主です。イエス様は私たちを捕らわれの状態からから解放してくださる主です。
 これらすべてを理解する最も良い方法は、依存症について話すことだと思います。アルコール、ポルノ、麻薬、仕事、成功、お金、名声などに依存すると、人生はコントロールできないことになります。それはあたかも自分の目的とは悪魔の力に支配されているかのようです。するべき良いことをしなくなってしまい、避けるべき悪いことをするようになってしまいます。わびしい囚われの身となっているので、自分で問題を解決することさえできないのです。努力をすればするほど、自分自身の鎖をより強く引っ張ることになります。自分の努力で自分を高めようとすると、依存症に深く陥る傾向があります。

 私たちがしなければならないのは、自分の無力を認め、自分の人生を神の力に委ねることです。私たちは完全に道に迷ってしまったことを認める必要があります。私たちは自分自身を救うことができませんが、イエス様は神の聖なる愛を通して私たちに恵みを与えてくださいます。また、イエス様の命、死、復活は、私たちに対する神の計り知れない恵みを表しています。

 神様は私たちに御子イエス・キリストと交わるように招かれています。喜べ、インマヌエル来たりて救いたもう」と叫ぶことしかできない捕らわれた人である私たちは、今日、神の恵みと希望の言葉を聞きました。それこそが私たちが参入しようとしている待降節の領域です。神の御恵みと祝福がありますように。


  First Sunday of Advent

    Today we begin the Advent season, the beginning of the liturgical year. And like New Year's celebrations, it is important for us to get back to our spiritual basics to start again. Every time Advent rolls around, I remind myself about the most famous hymn of our Advent season, “O Come, O Come, Emmanuel and redeem thy captive Israel, that mourns in lonely exile here, until the Son of God appear.” I think we can spend our whole Advent just musing on those lines in our private prayers.
 So, what's the setting for this image in this song? The setting for the image is the phenomenon of kidnapping which was quite common in the ancient world. Somebody would be on the road to be travelling and that's one reason, travel was considered so dangerous. Because you could be captured and held for ransom, especially if you're a relatively wealthy person, they would target you. And once you were kidnapped and you were taken away, maybe to a distant land. You’ve got enemies around you. You have no means of helping yourself. You’re mourning in lonely exile. All you could do in that situation wait, watch, and hope. So that, someone might come and pay for your release. That's why, the person who was held captive, says “O Come, O Come Emmanuel.” And of course, “Emmanuel” means “God with us.” So, if someone longing for God, if someone who feels isolated, separated in a different and a distant country, that person cries: “Oh come, O Come, Emmanuel and ransom captive Israel.” When I had left home, especially when I came to Japan many years ago. That was the experience of being a long way from home. I was feeling lonely. I was struggling to speak Japanese language. And all I could do is hope, wait and watch.
 With all this in mind, let us listen to the opening lines of our first reading. (Is 63:16b—17; 64:1,3-8) “You, LORD, are our father, our redeemer you are named forever.” Redeemer is a kind of religious term. Jesus is our Redeemer or our savior. The English word Redeemer is derived from a Latin term, “redimere”, which means to buy back. The implication is that God is best named as the one who can buy us back from slavery or captivity. We were held for ransom and now we're calling upon God the Father. You're the one Lord who can buy us back. You can release us from our captivity.
 The best way I think, for us today to understand all of this, is to speak of addiction. When you're addicted to alcohol, or addicted to pornography or to drugs, or to work, or to your own success, or to money or to fame, whatever it is. When you're addicted to those things, you are out of control. It's as though you're in the grip of a power that is alien to your purposes. The good that I would do, that's what I don't do. The evil that I would avoid, that's what I do. Because, I've been held captive, I cannot even in principle solve the problem myself. The more you try on your own efforts, that tighter you pull those chains around yourself. As long as he tries to lift himself up by his own bootstraps, the deeper he tends to fall into his addiction.
 What we need to do is to admit our powerlessness and turn our life over to the higher power of God. We’re completely lost. We are incapable of saving ourselves, but Jesus gives us with the divine love, his life, his death, his rising from the dead represents God's unmerited favor to us. God invites us to have a fellowship with his Son Jesus Christ our Lord. We who are captive who can only cry out, “oh come, O Come, Emmanuel”. We have heard now the good news, the word of grace. That’s the advent’s space we're meant to move into. God Bless you all.

2023年10月17日火曜日

デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)の説教


2023年10月15日 年間第28主日

  「神の子の婚宴に招かれる恵み」

 今日の福音書(マタイ22:1-14)は、マタイの福音書で語られるイエス様の最も奇妙で衝撃的なたとえ話の一つです。それは、王子(息子)のために婚宴つまり結婚披露宴を催し、人々を招待する王に関するものですが、人々はあらゆる言い訳を見つけて婚宴に出席しないです。そこで王は並外れた怒りで反応し、彼らを滅ぼし、彼らの町を焼き払います。そして彼は町のすべての人たちを婚宴に招待します。ある貧しい男は婚礼礼服を着ずに婚宴に出席します。王は彼を叱責し、彼を暗闇に放り出します。

 多くの人々は、このたとえ話が実際には何を意味するのか疑問に思います。多くの敬虔な信者は、このたとえ話の残忍さと暴力を受け入れがたいと感じています。人々が王の招きに応えなかったため、王は侮辱され、傷ついたかもしれないが、それが王にとって町を焼き払う理由となったのだろうか?この王は正気なのだろうかと思っています。

 私たちはこのたとえ話を文字通りに読んで、神が王のように振る舞っていると考えてはなりません。 「招きに応じなかった人を殺し、町を破壊するこのやばい王! ああ!それは神の振る舞う方法ですか?」ですから、これを文字通りに読んではいけません。

 たとえ話の中の王は、人々を盛大な婚宴に招待して下さった万軍の主です。王が王子のために婚宴を催しています。つまり、この婚宴はまさに、人類を神に結びつけることを目的とした御子イエスの婚宴です。神の御子は人類と結婚したいと考えています。皆さんは王の息子の結婚式に招かれています。これ以上に素晴らしいものはないですね。
 日本の天皇が、王子の結婚式のために宮殿で開催される盛大な宴会にあなたを招待していると想像してみてください。 さて、その招待状を受け取ると、それに対してどのように反応しますか? 「ごめんなさい、行けません」 や 「大変忙しいです」と言いますか? それとも、「ぜひ行きたいけど、その夜は友達と食事に行く約束をしてしまった」と言うのですか。そのような招待を断るのは愚かではないでしょうか?

 今日の福音書のたとえ話に出てくる人々は、招待を受けたとき何をしましたか。 人々は招待を無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、6また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。

 そこで、もう一度、私たちの文脈や環境で、皇居からの使者が親切にも招待状を持って来たと想像してみてください。そしてあなたは彼を殺してしまいます。これは奇妙ですね。王の側だけでなく、このたとえ話の中の誰もが奇妙な行動をしています。

 神は私たちみんなが神の命にあずかる恵みを得ることを望んでおられます。この宴会で供される料理はあらゆる料理の中で最高のものです。 第一朗読(イザヤ書25章6節)にあるように、「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。」  招待状を持ってきた家来たちは誰ですか?彼らは旧約聖書の預言者たちです。彼らはこの物語と同じような悲劇に遭遇しました。彼らは殺害されました。それが人々の激しい反応でした。だからこそ王の反応は極端なのです。

 聖書の中で神の怒りをどのように読み取ることができますか?神の怒りは文字通りに解釈されるべきではありません。なぜなら、神は愛であり、神の愛は永遠だからです。神には私たちのように感情がありません。私たちは「ああ、神様はご機嫌だ。私は悪いことをしたので、神の機嫌を悪くしてしまいました。」と考えないでください。神の怒りは、物事を正しくしたいという願望です。したがって、町の破壊は神の招きを拒否した結果生じる霊的な破壊を示しています。

 神の招きは、教会、秘跡、福音宣教、そして聖なる人々の証を通して私たちに届いています。私たちは皆、王子の婚宴への招待状を受け取った時、何と言いましたか?

 人々が王の招きに応えなかった故に、王は家来たちに、「だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』」と言います。それは普遍的な招きです。それは、神からの絶え間ない恵みを意味します。恵みは私たちが良い人だから与えられているのではなく、善人にも悪人も同様に無償であたえられています。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者を見つけます。王は彼を叱責し、最終的には彼を婚宴から追い出しました。それは本当に不公平だと思えますね。

 さて、どう解釈すればいいのでしょうか?神からの恵みを受け入れることが最も重要なことです。私たちは皆、神の家である天の国に招かれています。しかし、その場合、私たちは神の掟に従って生活しなければなりません。したがって、婚礼礼服は道徳的と霊的な生活を表しています。それは自分の霊的生活の刷新を意味します。愛、平和、謙虚さ、非暴力、和解、思いやりなどの霊的な価値観を婚礼の礼服として身につけましょう。


 Homily. 説教

 “The grace of being invited to the wedding feast of the Son of God”


The Gospel of today is one of the strangest and most shocking of the parables of Jesus as reported in the Gospel of Matthew (Matthew 22:1-14). It has to do with the king who gives a wedding party for his son and invites people to come but the people find all the excuses for not attending the wedding banquet. So, the king responds with a sort of extraordinary anger and he kills them and burns down their city. And then he invites all sorts of people from the streets to come for the banquet. The poor man shows up without wedding garment. The king rebukes him and throws him out into the darkness.

So, the people wonder what in the world this parable can mean. Many devout believers find the brutality and violence of this story unacceptable. The king might have been insulted and hurt, because the people didn't respond to the invitation, but would that give him a reason to kill them and then burn down their city? We just begin to wonder about the sanity of this king.

We shouldn't read this parable literally, as if God behaves the same way that king behaves. “This crazy king that kills people and destroys their city when they don't respond to him. Oh! that's how God reacts.” Don't allegorize or read in a straight forward in a literal way.

The king in the parable is the Lord of hosts is giving a banquet for his son. So, this is indeed God the Father as a King who's giving a wedding banquet for his son Jesus whose purpose is to unite the human race to God. God’s Loving son wants to marry the human race. You're being invited by the king to the wedding of his son. He wants to offer to all of us a share in His divine life. There's nothing more wonderful than this.

Imagine that the Emperor of Japan inviting you to a formal dinner at his royal palace, for the wedding of his son. Well, if you got that invitation, what would you do or say? Would you say, “Sorry, I can't come. I am busy.” Or would you say “I'd love to, but I've already agreed to go out to dinner with my friends that night.” It's ridiculous to turn down such an invitation.

What did the people do in the parable when they received the invitation? Some ignored the invitation and went away, one to his farm, another to his business. Some mistreated the servants who brought the invitation, and some killed them. So again, in our context, imagine a messenger has come from the Royal palace bringing the gracious invitation. And you killed him. The exaggerations are all over the place, not just on the side of the king, but everyone in this parable is acting in a strange way.

The food offered in this wedding banquet is the best of all possible foods. Look at our first reading (Is 25:6-10) which parallels the gospel. “On this mountain the LORD of hosts will provide for all peoples a feast of rich food and choice wines, juicy, rich food and pure, choice wines.”
Who are the servants who brought the invitation? They are all the prophets. They have been met with the tragedy of this story. They’ve been Murdered. That was the violent reaction of the people. That is why the King's reaction is so over the top.

How do we read God’s anger in the Bible? Don't literalize God’s anger. God is love and His Love is eternal. God doesn't have emotions the way we do. We shouldn't think that “Oh, God is in a good mood. but now I've done a bad thing, so I put Him in a bad mood.” God’s anger is His desire to set things right. So, the destruction of the city signals the negativity that the spiritual destruction that follows from refusing the divine invitation.

The Divine invitation has come to us through the church, though the sacraments, through the preaching, through the witness of holy people and so on. We all received this invitation from the king to the wedding of his son. What have you said to?

After the refusal, comes the universal invitation for everybody. So, the king says to his servants, “go out into the main roads, invite to the feast, whomever you find the bad and the good alike.” It means the relentless offer of His grace. Grace is given not because we're good, but to “the good and bad alike.” Grace is freely given.

The king comes to join his party and he finds a man without the proper wedding garment. And he upbraids him, eventually tossed him out of the festivities. It all seems kind of petty and unfair.

Well, how do we interpret? The acceptance of grace is essential. Grace comes first. We've all been invited into God's household. But then we must live in accord with the rules of that House. So, the wedding garment stands for the moral and the spiritual life. It stands for the renewal of the entire self. Let us clothe ourselves in spiritual values like love, peace, humility non-violence, compassion and so on. Jesus wants to shake us all by the shoulders to wake us up to these essential spiritual dynamics.


2023年10月4日水曜日

師父聖フランシスコの帰天際の説教

デソーザ・ジョンソン神父様(OFMcap)より

 2023年10月3日  師父聖フランシスコの帰天際の説教

 今日、10月3日、私たちは師父聖フランシスコの帰天、つまり聖フランシスコの天国への旅立ちを記念するためにこの御聖堂に集まっています。1226年10月3日の夕方、故郷のイタリアのアシジで亡くなりました。今晩、世界中のフランシスコ会の兄弟姉妹たちがフランシスカン家族と共に、師父聖フランシスコの帰天際をお祈りしながら記念します。
 ここで重要な質問があります。800年近く経った今でも、なぜ私たちは聖フランシスコの死を記念するのでしょうか? 多くの人が毎日亡くなっていますが、毎年これほど荘厳に記念されることはありません。もしこれが自分の死のことだったとしたら、それは永遠に記念されるでしょうか?誰によって記念されるのでしょうか?どうやって記念されるのでしょうか?私は神と社会に記憶に値するような何かを与えることができたのでしょうか?これらの質問には答えなければなりません。一度死の瞬間を迎えると、もう後戻りはできません。私たちは戻ってきて、しなければならいことを達成することは出来ません。もう戻って赦しの秘跡も受けることは出来ません。私たちは今と同じ心の状態のまま、この世からあの世に移るでしょう。
 アッシジの聖フランシスコの死は、「死によって完全に終わるものは何もない」ということを私たちに思い出させます。800年経った今でも聖フランシスコの死を記念しているという事実がその証拠です。 もう一つの証拠は、私たちが蒔いたものは私たちが死んだ後も成長し続けるという事実です。私たちが信仰、愛、平和、赦し、希望、謙虚さ、喜びの種を蒔けば、それらは成長し続けて良い種となり、場合によっては木になることもあります。聖フランシスコは愛、赦し、従順、平和などの良い種を沢山蒔きました。
 聖フランシスコは完璧な社会に住んでいたわけではありません。 13 世紀には、病気、貧困、犯罪、戦争、宗教的紛争、社会的紛争、政治的紛争が日常生活の一部でした。聖フランシスコは生涯を通じて、罪を抱えたまま死ぬ危険性について兄弟姉妹に警告しました。多くの人が罪の意識を持っていないため、罪は存在しなくなったと言う人もいます。それは真実ではありません。

 聖フランシスコは、すべての人が人生の終わりに裁きに直面することをよく知っていました。彼は兄弟姉妹のために、罪を避け、罪を償う方法に関するガイドラインを規則に記しています。この規則はフランシスコ会の兄弟姉妹が守る規則であり、罪を償うための規則です。償いや悔い改めは神と隣人との和解です。つまり、神様からの赦しを求め、神様を愛し、隣人を大切にすることを意味します。この愛の行いの故に、聖フランシスコが天の国の報いを得たのです。それは彼が一度も罪を犯さなかったというわけではありません。正しいことを避けたり、愛の行為を先延ばしにしたりするのではなく、回心して神に立ち返り、神と人類をもっと愛することを彼は生涯かけて望んでいました。
 キリストの福音は聖フランシスコの導き手でした。キリストは彼の模範でした。聖フランシスコの魂と神の心の間で結婚式が行われ、この霊的な結婚式で子供たちが生まれました。彼の兄弟 姉妹は神への絆から生まれた神の子供です。
 私たちがこの御聖堂に集まっているのは、私たちの師父聖フランシスコが神と人類をとても愛していたので、私たちはその愛を決して忘れないからです。その愛の精神がフランシスコ会の家族のすべての人々の中に生き続けています。聖フランシスコが死の時を迎えたように、私たちもいつも死のために準備をしながら、神のもとで死ぬことを望み、キリストと師父聖フランシスコの足跡を辿ることができますように。神の力と祝福を願いましょう。

2023年9月18日月曜日

全国霊的補佐 デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)より  年間第24主日の説教

   年間第24主日

 今週の日曜日の第一朗読は、素晴らしい本であるシラ書からです。(シラ 27:30-28:7) シラ書は道徳的な事柄に関して教える本です。今日の箇所は憤り、怒り、復讐、そして赦しに関して語ります。それらのテーマがイエス様の教えにとってどれほど中心的なものでしたか?イエス様は、特に山上の説教の中で、怒りと赦しについてどのくらいの頻度で話されたでしょうか。

 今日の朗読で心に残った言葉は「憤りと怒り、これはひどく忌まわしい。罪人にはこの両方が付きまとう」です。 憤りや恨みを持ち続けることが破壊的であることは誰もが知っていますが、私たちはそれらを抱き続けます。誰かに傷つけられたことや侮辱されたことは数十年前のことかもしれませんが、あなたは今でもその恨みを抱き続けます。それはどれほど自己破壊的でしょうか?

 ある人の葬儀のとき起こったことです。葬儀ミサに参加した方々が平和の挨拶を交わしていました。しかし、そこで何か奇妙なことが起こりました。姉妹は兄弟に平和の挨拶を交わしたとき、兄弟は「もうあなたとは話したくない」と言いました。それは彼らの母親の葬儀の時でした。私たちがいかに恨みを持ち続けているのでしょうか?

 2001年に教皇ヨハネ・パウロ2世がギリシャを訪問したときのことです。その時、多くのギリシャ人は教皇様の訪問に対して猛反対でした。教皇が平和のメッセージを伝えるために訪問しましたが、ギリシャ人の憤りの背後に何があるのかと尋ねられたとき、彼らの答えは、「1206 年に十字軍がコンスタンティノープルを征服した」でした。 800年前のことですが、彼らは恨みを抱いていました。

 聖トマス・アクイナスはこう言います、「怒りとは理性では制御できない復讐への情熱である。」これは怒りの罪です。聖トマス・アクイナスは、物事を正そうとするためのある種の正当な怒りがあるということを知っていました。たとえば、イエス様は縄で鞭を作り、両替人の金をまき散らし、商人を神殿から追い出します。つまり、それは正当な怒りです。聖トマス・アクイナスはそのような正当な怒りに関して語っているわけではありません。それは怒りの罪ではなく、むしろ復讐への情熱が怒りの罪なのです。

 赦しとは何でしょうか?赦しとは、他人の重荷を負うことです。 シラ書もイエス様も、私たちが他人を赦すことと、神が私たちを赦してくださることの間に非常に強いつながりを示してくださいます。シラ書は「隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される」と言います。イエス様は何と言われましたか?それは主の祈りにあります。主の祈りを唱えるたびにこう言います、「私たちに罪をお赦しください。私たちも人を赦します。」 なぜ七回どころか七の七十倍まで赦すべきですか。それは、私たちが神様に何度もゆるされているからです。神はどれくらいの頻度で私たちを赦してくださるでしょうか?無条件にゆるしてくださっています。

 私たちは神に対して不当な扱いを受けてからどれだけの頻度で戻ってくるでしょうか?通常、私たちは神に立ち返らずに神から逃げます。放蕩息子の父を思い出してください。息子は遠くにいたのですが、父親は息子を見て、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻しました。神様は同じように私たちに向かってに走ってきます。見失った羊を探している羊飼いのことを考えてください。神はそのようにして私たちを探し赦してくださるのです。したがって、私たちはお互いを同じように赦す合うべきです。難しいことでしょうか?しかしイエス様は、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と言われます。聖パウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。 キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と言います。もしキリストが私たちの内に生きておられ、私たちを七回どころか七の七十倍まで赦してくださるなら、私たちもそのように兄弟姉妹を赦さなければなりません。

 罪のない主イエスキリストは、邪悪で残酷な人々によって十字架に釘付けにされました。その時、イエス様の口から出る言葉は、赦しの言葉でした。 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 イエスさまが復活された後、自分を裏切り、否定し、見捨てた弟子たちの元に戻ったとき、イエス様の口から出た言葉は「シャローム」即ち「平和」です。つまり、赦しと和解の言葉です。

 「憤りと怒り、これはひどく忌まわしいものですが、私たちはこの両方も抱き続ける」ということを知っています。恨みを抱き続けることはやめましょう。他人の重荷を負いながら、イエス様が示してくださった赦しと愛の道を歩んでいきましょう。


    24th Sunday of Ordinary time

 The first reading for this Sunday is taken from the marvelous book of Sirach. It's a collection of brief statements which has a moral nature. Today’s passage from the book of Sirach (Sir 27:30—28:7), has to do with anger, vengeance, and forgiveness. How central those themes were to the preaching of Jesus? In the teaching of the Lord, especially in the Sermon on the Mount、how often Jesus refers to these issues of anger and forgiveness?

 Here's the one-liner from the reading for today that stays in my mind. “Wrath and anger are hateful things, yet the sinner hugs them tight. We all know that holding onto grudges and old resentments isdestructive, yet we hold them tight. There’s somebody that harmed you and insulted you, may be decades ago, you are hugging that resentment. How self-destructive that has been?

 It happened at a funeral. Many people were greeting each other with a sign of peace. But then something strange thing happened. A sister turned to a brother to greet with a sign of peace. The brother said, “I never want to speak to you again.” That was the funeral of their mother. How do we hold onto grudges so tight? Don't we?

 It was in the year 2001, when Pope John Paul II was visiting Greece. During that time, there was ahugely negative reaction on the part of many Greeks to this Roman pope coming. And when they were asked, “what's behind this resentment, when the pope bringing a message of peace?” Their reply was, “the crusades back in the year 1206, when the Latin armies came and they overran Constantinople.” It was 800 years ago, but they were holding the grudges tight. Don't we hug the grudges tight?

 St. Thomas Aquinas says “anger is a passion for revenge, that goes beyond the control of reason.” This is a deadly sin. St. Thomas Acquinas knew that there's a kind of justified anger which is a passion to set things right. For example, the Lord Jesus is overturning the tables of the of the money changers, etc. So,that’s the legitimate anger. St. Thomas is not talking about that kind of legitimate anger. That's not a deadly sin of anger, but rather he speaks about a passion for revenge which is the deadly sin of anger.

 How do we stop hugging tight our resentments? The classic antidote is called “forgiveness.” How central it was to the preaching of Jesus. How often should I forgive my brother or sister? Seven times. No, Jesus says, “seventy - seven times.” The meaning is, to forgive without limit. What is forgiveness precisely?

 Forgiveness is about bearing the burden of the other. What justice requires them to carry, you carry for them. Both Sirach and the Lord Jesus tie our forgiveness of others very tightly to God's forgiveness of us. Sirach says “Forgive your eighbor's injustice; then when you pray, your own sins will be forgiven.”What did Jesus say? We say every time when we recite the Lord's Prayer “Forgive us our trespasses as we forgive those who trespass against us.” Why do we forgive seventy-seven times? Because we've been forgiven that way. How often does God forgive us? Constantly without limit.

 How often do we come back with Injustice to God? Typically, we don't come back but run away. God comes running after us, just like the father of the prodigal son, comes running toward him. Think of theshepherd looking for the lost sheep. That's the way God Forgives us. And therefore, we should forgive each other in the same measure. Is it difficult? But Jesus says: “be perfect as your Heavenly Father is perfect.” St Paul says, “It's no longer I who live, but Christ who lives in me.” If Christ lives in you, the same Christ that forgives you seventy-seven times., then you must forgive your brother and sister just that way.

 The Lord Jesus, the sinless Christ, nailed to a cross by wicked and cruel people. He had the word that comes from his mouth as a word of forgiving love. “Father, forgive them. They know not what they do.” When he comes back to his disciples after the resurrection to those who betrayed him, denied him, abandoned himin his moment of greatest need, the word in his lips is “Shalom” “Peace.” It's a word of forgiveness and reconciliation. We know, “Wrath and anger are hateful things, and yet we hug them tight.” Let’s stop hugging the resentment. Bear the burden of others. Let’s all walk the path of forgiving love.


2023年9月14日木曜日

全国霊的補佐 デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)より  年間第23主日の説教

  23rd Sunday of the Ordinary time

  Today I am going to speak about the second reading. That is the letter of St. Paul to the Romans. For the past few weeks, we have been reading the letter to the Romans during Mass, but I did not focus on the letter to the Romans. Today’s passage from the letter to the Romans Chapter 13:8-10, is the greatest statement of St. Paul’s theology. He says, “brothers and sisters, owe nothing to anyone, except to love one another; for the one who loves another has fulfilled the law.”

  When Martin Luthar famously said in the beginning of the Protestant reformation, what he discovered in Paul and in the texts like Romans chapter 3:21-31, and Galatians chapter 2:15-21, and Ephesians chapter 2:8-9 and others. It seems that we are justified or saved not by the works of the law, but by faith. So, Luther says that by grace through faith, and he intensifies it by saying that sola gratia (grace alone), sola fide (faith alone) we are saved, and not by the works of the law. St. Paul said that in the beginning, but how come in today’s passage, he talks about love as the fulfilment of the law.

  Remember what Jesus says: “If you have faith as small as a mustard seed, you can say to this mountain, 'Move from here to there,' and it will move, and nothing will be impossible for you” (Mathew 17:20). If you have faith enough to move the mountains, but have not love, you are nothing. It doesn’t sound like I'm justified by faith alone. Think about the text like Matthew 25. The king at the end of times, separates the sheep from the goats. The basis of separation is not some had faith and others didn't. Rather, whatsoever you do to the least of my brothers and sisters, you do unto to me. It seems as though something like love is the criterion rather than faith.

  What does Paul mean by the Law? Paul is a Jew who studied under Gamaliel, the teacher of the law and he was trained in the great Israelite tradition. He would have known all about complexity of the Jewish law and about the Temple worship. Think here of temple sacrifices, priests, and of dietary laws, and the law which is defined in terms of clothing and so on. We are not saved by those works of the law. In the letter to the Romans chapter 13, as Paul goes on, “The commandments, “You shall not commit adultery; you shall not kill; you shall not steal; you shall not covet,” and whatever other commandment there may be, are summed up in this saying, [namely] “You shall love your neighbor as yourself.” Paul is not talking about a ceremonial, dietary, juridical precepts of ancient Israel. Those are not relevant to our salvation. But he's talking, indeed, about the moral law.

  All of that moral law is summed up in the great commandment to love. St. Paul says, it is faith expressing itself in love. “The council of Trent” (1545-1563) says that faith is the beginning and the root of all justification. I can't justify apart from Christ. Once drawn into the power of Christ, I have the faith to open the door and invite Christ into my life. Paul says it's no longer I who live. It's Christ who lives in me.

  The old self predicated upon hatred and violence has been put away by grace accepted in faith. The Commandments, “do not commit adultery, do not kill, do not steal, do not covet. All of it is summed up by saying you shall love your neighbor as yourself.” What makes real love possible? It is Grace. It's only when I through faith opened the door to Christ and allow him to begin living in me.

  We have the great example of maximum Kolbe. When I think about Kolbe, he gave his life for a man he barely knew. He was a fellow inmate in the concentration camp in Auschwitz. But at that moment, Kolbe said, “Take me in his place.” I would say that, “it was no longer Kolbe who lived, but Christ was living in him.” Kolbe had accepted Christ and his grace through faith. That is allowing Christ come in him. So how are we saved? By faith, yes, accepting the grace of Christ. Without that we can't be saved. But that's the door. That’s the route. This faith now having taken root, expresses itself in this startling Love.


  年間第23主日

 今日は第二朗読について考えてみたいと思います。それがローマの信徒への手紙です。数週間前からミサの中にローマの信徒への手紙が読まれていますが、私はローマの信徒への手紙に焦点を当てていませんでした。 今日の箇所は、ローマの信徒への手紙 13章8節~10節です。これは聖パウロの神学の最も偉大な言葉です。聖パウロはこう言います。「皆さん,互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」

 プロテスタントの宗教改革の初めにマルティン・ルターが述べた有名な言葉はローマの信徒への手紙 3:21-31、ガラテヤの信徒への手紙 2:15-21、エフェソの信徒への手紙 2:8-9などの箇所からの言葉です。 つまり、私たちは律法の行いによってではなく、信仰によって義とされ、救われるということです。さらに、マルティン・ルターは、「信仰のみ」(sola fide)と「恵みのみ」(sola gratia)によって人が救われるという考えを強調しました。聖パウロは最初にそう言いましたが、なぜ今日の箇所で愛は律法を全うすると語っているのでしょうか。

 イエス様の言葉を思い出しましょう。「からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」 (マタイ 17:20) )。たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、私は無に等しいのです(1コリント13:2)。信仰だけで義とされるわけではないようです。マタイ 25:31-46、人の子は、栄光に輝いて、その栄光の座に着くとき、羊と山羊を分けます。この分離の根拠は、ある人が信仰を持っていて、他の人が信仰を持っていないということではありません。 「わたしの兄弟姉妹であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」 信仰というよりは愛の行いが基準になっているような気がします。

   パウロは律法をどのように理解したのでしょうか?パウロは律法の有名な教師であるガマリエルのもとで律法を学び、イスラエルの偉大な伝統の中で訓練を受けたユダヤ人でした。彼は律法の複雑さに関してすべてを知っていたでしょう。神殿のいけにえ、祭司、ユダヤ教の食事の規則、そしてユダヤ人の服装などに関して定められた様々な規則について考えて見ましょう。それらのどの律法の行いによって私たちは救われません。今日の箇所でパウロは続けて言います。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。パウロは古代イスラエルの儀式や食事の規則や法的な戒めについて話しているわけではありません。それらは私たちの救いの基礎ではありません。しかし、パウロが話しているのは確かに道徳律についてです。

 すべての道徳律は愛という偉大な戒めに要約されています。聖パウロは、愛は信仰の表現であると言っています。 「トリエント公会議」(1545-1563) では、信仰はすべての義の始まりであり根源であると述べられています。それは、キリストを離れては誰も義とされないということです。 一度キリストの力に引き寄せられると、私は信仰の扉を開き、キリストを自分の人生に招き入れます。パウロは、「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」と言いました。憎しみ、怒りと暴力に満ちた古い自己は、信仰を通して受けた恵みによって遠ざけられます。何をすれば真の愛を実践できるでしょうか?それは神の恵みによるものです。

 マキシミリアン・コルベの素晴らしい例があります。コルベについて考えるとき、彼はほとんど知らない男のために命を捧げました。その男はアウシュビッツ強制収容所の囚人でした。 その時、コルベは「私を彼の代わりに連れて行ってください」と言いました。 コルベがしたことを聞くと、私は「生きているのは、もはや、コルベではなく、キリストが、コルベのうちに生きておられたのだ」と言います。コルベは信仰を通してキリストとその恵みを受け入れました。

 では、私たちはどのようにして救われるのでしょうか?信仰とキリストの恵みを受け入れることによってです。それがなければ私たちは救われません。しかし、信仰が扉なのです。それが道なのです。この信仰は今や根付いており、素晴らしい愛の行為として実践すれば、私たちは救われるでしょう。

2023年9月5日火曜日

全国霊的補佐 デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)より  年間第22主日の説教

 年間第22主日

 数週間前、私は預言者エレミヤについて話しました。神の御名において語る預言者エレミヤを人々が受け入れなかったが、彼は主なる神を信頼し続けました。今日の第一朗読は預言者エレミヤの20章7節~9節です。預言者エレミヤの性格は、時には印象的で深く賢明ですが、時には恐怖、怒り、欲求不満などのさまざまな感情を伴います。彼は私たちと同じように、神の御前で苦しみ、何をすべきか分からず混乱する人でした。神は彼に恐ろしい重荷を与えたからです。
 神は「ねえ、エレミヤ、あなたはこれから素晴らしい良い知らせを伝えるようになります。そのおかげであなたはイスラエルで最も有名な人になるでしょう」とは言われません。それどころか、神は彼に「イスラエルが神の裁きにさらされるだろう」という恐ろしいメッセージを与えます。神はバビロニア人を用いてイスラエルの不忠実のこと、偶像崇拝、貧しい人々の虐待を罰するつもりであり、イスラエルはそれから逃れることができません。そしてイスラエルの民が実際にできることは、神の裁きを受け入れ、外国の侵略者に降伏し、追放と敗北を受け入れることだけです。それが神様からのメッセージでした。彼のメッセージに非常に怒っている同時代人たちから対立が生じました。さらに、彼らはエレミヤのメッセージを受け入れようとはしませんでした。
 彼が預言者ヨナのようだったとしましょう。預言者ヨナは「あなたたちは悔い改めなければならない」というメッセージを伝えた時、ニネベの人々は悔い改めて神のメッセージを受け入れました。ヨナはイスラエルの歴史の中で最も成功した預言者になりました。エレミヤはその逆でした。人々は彼の言うことを聞かず、彼を迫害し、水溜に投げ込みました。そして、確かなことかどうかわかりませんが、伝説によれば、彼は同胞たちによって石打ちで殺されたと言われています。

 それを念頭に置いて、今日の第一朗読で預言者エレミヤ自身が何と言っているかを考えてみましょう(エレミヤ20:7-9)。 「主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされてあなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ、人が皆、わたしを嘲ります。」エレミャは神の御前に平安に立ち、いと高き方に単純な賛美の言葉を捧げているわけではありません。むしろ「見よ、あなたは私を預言者とし、私を惑わせたのです」と言っているのです。あなたは私にこのひどい重荷を与えました、そして今では私がそれを背負っているので皆が私を憎んでいます。

 伝道師は文化の真っただ中で、あるいは神の言葉を聞きたがらない人々の真っただ中で神の言葉を伝えています。公共の場で、妊娠から自然死までのすべての人の無限の尊厳に関して話してみてください。あらゆる方面のテロについて話してみてください。戦争、テロ、妊娠中絶、安楽死などの悪に対して話してください。人種、文化、宗教は問わず、すべての人が尊重されるべきだと強く促してみてください。同性愛者を含む社会から疎外されているすべての人々が評価され、尊重されるべきだと話してみてください。やがて、預言者エレミヤが聞いたように「恐怖が四方八方から迫る」のが聞こえるでしょう。それが預言者エレミヤの生き方でした。彼は自分のやっている仕事で喜ばしい成功を収めることはできず、むしろ侮辱、批難と拒絶を受けました。

 預言者エレミヤのメッセージの最も重要な部分は、人々の反対を経験した後に彼が述べた言葉です。エレミヤはこう言います「主の名を口にすまいもうその名によって語るまい、と思っても主の言葉は、わたしの心の中骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。押さえつけておこうとしてわたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」人々から否定された後、彼は今、「辞めたい!もうこんなことをしたくない」と言いたくなりました。
 公共の場で説教したり教えたりすることに携わった人なら誰でも、人々からの否定的なフィードバックを経験したことがあると思います。 「批判が多すぎるのでやめたい」と思ったら、伝えなければならない言葉が中骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がるに違いません。押さえつけておこうとしてわたしは疲れ果てるのでわたしの負けです。

 聖パウロことを考えてください。聖パウロはエレミヤによく似ていた人物でした。彼は常に成功を収めていましたか?いいえ。それどころか、人々は彼を石で打ち、彼を町から追い出し、迫害し、最終的には彼を死刑に処しました。聖パウロもエレミヤと同じ経験をしました。しかし、聖パウロは、「福音を告げ知らせないなら、私は不幸なのです」と言うことができました。神の言葉は聖パウロの心に深く浸透しましたが、彼は福音を伝えることをやめることができませんでした。エレミヤもそうです。
 洗礼を受けたすべての人は祭司、王と預言者であるというのはカトリックの基本的な教えです。ミサに行くたびに、祈るたびに祭司職を果たします。あらゆる方法で人々を助け、神の国に導くとき、王職を果たすようになります。神の言葉を宣べ伝えるたびに、預言職を果たすようになります。「主よ、その職務はやりたくない。難しいです」と言ったとしたら、それがあなたを手放すことはできず、その義務はあなたの中で燃え上がる火となり、あなたはそれに耐えることができなくなります。私たちも「福音を告げ知らせないなら、私は不幸なのです」と言うでしょう。



 Twenty-Second Sunday in Ordinary time

A few weeks ago, I preached about the prophet Jeremiah; how the people rejected him for speaking in God’s name. Yet, he continued to trust in the Lord. Today’s first reading is from the 20th chapter of Jeremiah the Prophet (Jer 20:7-9). The nature of the prophet Jeremiah is majestic, deeply wise, afraid, angry, and frustrated. We see the whole range of emotions. He was the person just like us, conflicted and confused in the presence of God, not knowing what to do. The Lord gives him, the terrible burden. God doesn't say: “Hey, Jeremiah、You're going to announce wonderful good news, and because of it, you're going to be the most popular person in Israel.” On the contrary, he's given a terrible message to deliver that Israel is going to fall under God's judgement. God is going to use the Babylonians to punish Israel for its infidelity, idolatry and its mistreatment of the poor, and there's no escaping it. And all they can do really is accept this judgement, surrender to this foreign invader, and accept their exile and defeat. That was the message. Did it make him popular? No. On the contrary, everyone hated Jeremiah. The terror is coming from his contemporaries who are so angry with his message. Moreover, they didn't listen to him. So, let's say he was like the Prophet Jonah. The prophet Jonah announced his message, “You must repent” and the people of Nineveh repented and they accepted the message of God and Jonah was the most successful prophet in the history of Israel. Jeremiah was the opposite. They didn't listen to him. They persecuted him and they threw him down in the cistern. And we don't know this for sure, but very likely he was stoned to death by his own people. So, with that in mind, let’s listen what Jeremiah himself is speaking in today’s first reading (Jer 20:7-9). “You duped me, O LORD, and I let myself be duped; you were too strong for me, and you triumphed. All the day I am an object of laughter; everyone mocks me.” This is not someone who is standing serenely in the presence of God, offering a simple word of praise to the Most High. This is someone saying, “l I was duped, because you gave me this terrible burden, and now I'm bearing it and everybody hates me.

The religious person is announcing the word of God in the midst of a culture, in the midst of people that doesn't want to hear it. Try speaking today in the public forum about the infinite dignity of every person from conception to natural death. Try talking about terror on every side. Try speaking against evils like war, terrorism, abortion, euthanasia etc. Try urging that everyone should be respected regardless of race, culture and creed. Try speaking that all marginalized people including the gay people should be valued and respected. Soon you will hear "terror on every side," as the prophet Jeremiah heard. That's what Jeremiah lived. He didn't find joyful success in the work that he's doing. He found derision and mockery and rejection.

Here is the most important part of his message. After experiencing opposition from the people, Jeremiah says “I say to myself, I will not mention Him, I will speak in His Name no more. But then it becomes like fire burning in my heart, imprisoned in my bones; I grow weary holding it in, I cannot endure it.” Having received the negative feedback, he's now tempted to say, I want to quit. I'm not going to do this anymore. I think anyone who has been involved in preaching and teaching in public, has experienced negative feedback from the people. If I think “I want to withdraw because there are too many criticisms.” Then it becomes like fire burning in my heart, imprisoned in my bones. I grow weary holding in it. I cannot endure it.

What about St. Paul? St. Paul was very much like Jeremiah. Was he always with the success? No. On the contrary, the people stoned him and they chased him out of the city and they persecuted him and finally put him to death. St. Paul had the same experience as Jeremiah. Yet St. Paul could say, “woe to me if I do not evangelize.” The Word of God got so deep into St. Paul, but he couldn’t stop evangelizing. So is Jeremiah.
The basic Catholic doctrine that every single baptized person is priest, king and prophet. You exercise your priesthood; every time you go to mass and every time you pray. You exercise your kingship, every time you help the people in every way and lead them toward the Kingdom of God. You exercise your prophecy, every time you speak the word of God. If I say, “I don't want that responsibility, Lord.” But then, it won’t let you go and it becomes like fire burning within you, and you cannot endure it. You will say “woe to me if I do not evangelize.

2023年8月31日木曜日

在世フランシスコ会の保護聖人 聖ルイ9世

  主の平和!

 「出典『Roman Catholic Saints』 https://www.roman-catholic-saints.com/traditional-franciscan-calendar.html 」を翻訳された三軒茶屋兄弟会の山本兄から、在世会の保護聖人である聖ルイ王についてのものが送られてきました。 その祝日から数日過ぎてはいますが、第三会(在世フランシスコ会)員として生涯を貫いた聖人、聖ルイ王を紹介します。      全国兄弟会会長 藤田重和


  在世フランシスコ会の保護聖人 聖ルイ9世

 聖ルイ9世は1215年4月25日、パリ近くのポワシー城で生まれました。信心深い母、ブランシュは、彼が統治する地上の王国だけでなく、さらには天の王国のために教育されるべきだと決意しました。彼女は彼にすべてのことを信仰の光で見るように慣れさせ、これによって幸運な時に謙虚さを保ち、不運な時に耐える精神の基盤を築きました。これは聖なる王を特徴づけていました。

 ルイはわずか12歳の時に王に即位しました。しかし、彼の未成年期には実際の政治は母に委ねられました。その間、ルイはキリスト教徒の王としてのすべての事柄を学んでいました。彼の指導者の中には何人かのフランシスコ会修道士がお<り、後に若い王自身も聖フランシスコ会の第三会に加わります。

 聖ルイ9世は自身の名のもとで数年間王国を統治したのち、あるとき深刻な病気の間に誓いました。回復したら聖地への十字軍を行い、聖なる場所を異教徒の手から奪い返すことを。健康を取り戻すとすぐに誓いを果たしました。彼はサラセン人からダミエッタの要塞を奪いましたが、彼の近親の従兄弟であるカスティーリャとレオンの王、聖フェルナンド3世ほどの成功をおさめることはありませんでした。おそらく聖ルイ9世が成功しなかったのは、神の意志ではなかったということでしょう。彼の軍が疫病の蔓延で弱体化した後、彼は捕虜の身となりました。

 異教徒の囚人として聖なる平穏をもって数ヶ月間苦しみに耐えた後、解放の条件が彼に出されました。しかし、これらの条件には、もし彼がそれらを履行しない場合、キリストとキリスト教の宗教を否定するという誓約が付されていました。
 聖なる王は答えました。「その冒涜的な誓いを私は口にすることはありません。」 彼らは死をもって脅しました。「よろしい、」彼は言いました。「あなたは私の体を殺しても、私の魂を決して殺すことはできません。」 その不動の勇気に感銘を受けて、彼らは最終的に彼を不利な条件なしで解放しました。キリスト教徒に有利な多くの他の条件を確保した後、彼は母がその間に亡くなったため、フランスに戻らざるを得ませんでした。

 王国の統治において、聖ルイ9世は信仰心があらゆる面でどれほど有益であるかを示しました。彼は国と人々の福祉を驚くほどの方法で促進しました。彼のキリスト教徒としての生活、またキリスト教徒の父親としての生活は非常に模範的であり、彼は第三会員の守護者と模範として選ばれるに値すると認識されています。

 彼の人生における最も重要な原則は、あらゆる状況下で神の法を遵守することでした。彼の伝記作家は、彼が決して致命的な罪によって洗礼の無垢を失わなかったと確信しています。彼自身は洗礼の恩寵を非常に大切にし、秘密の手紙で「ポワシーのルイ」と署名することで喜びを感じていました。なぜなら彼が洗礼を受けたのはそこにある教区教会だったからです。

 聖ルイ9世は使用人や宮廷人の間でも呪いや罪深い会話を決して許容せず、不親切な言葉や我慢できない言葉を発したことはありませんでした。彼は宮廷でのすべての不必要な華やかさや贅沢を避け、貧しい人々により多くの援助を提供できるよう願いました。彼は自身で数百人以上に食事を提供し、奉仕して、貧しい人々にも関わりました。彼の服装は適切な限りシンプルであり、常に外套の下に第三会の記章を身につけていました。特別な場合には第三会員の服を公然と着用していました。

 邪欲を抑えるために、彼は教会で定められたすべての断食を異例の厳しさで守るだけでなく、特に好きだった特定の食べ物も自制しました。彼は神が彼の結婚に与えた11人の子供たちに対して非常に心を砕いた父でした。彼自身は彼らと一緒に毎日祈り、彼らが学んだ教訓を試験し、キリスト教の慈善活動を行う際に彼らを導き、遺言で最も美しい指示を彼らに残しました。

 彼はキリストの受難に特別な献身を捧げ、イエスの茨の冠を手に入れたとき、それは彼にとって大きな慰めとなりました。彼はその保存のためにパリに壮大な聖堂を建てたのです。聖地のキリスト教徒への弾圧に対する深刻な訴えが彼の耳に届いたとき、1270年に2度目の十字軍を企てましたが、途中で自身が病死しました。彼が病死したのは、病気の兵士を訪問中に感染した疫病のためでした。

 主の家に入る喜びの叫び声の中で、聖ルイ9世は1270年8月25日に魂を神に委ねました。ルイ9世は1297年にボニファティウス8世によって列聖されました。

  from: The Franciscan Book Of Saints, ed. by Marion Habig, OFM

 祈願

 全能にして永遠に生きる神、あなたは聖ルイをこの世の支配者としての思い煩いから解放し、天の栄光へと導いてくださいました。彼の執り成しによって、私たちが地上で行う仕事を通して永遠の御国を求めることができるように助けてください。
 私たちの主、あなたの御子イエス・キリストによってこれをお与えください。この方は、永遠に一つの神、あなたと聖霊とともに生き、支配しておられます。アーメン。

2023年8月24日木曜日

ジョンソン神父(OFMcap)の年間第20主日の説教

壁と橋

 今日の福音箇所(マタイ15・21-28)は、イエス様とカナンの女の有名な物語です。これは多くの人を悩ませている福音箇所の一つです。イエス様がイスラエルの国境であるティルスとシドンの地方に行かれた時、カナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫びました。 通常、イエス様は「何かをしましょう」と言うでしょう。 しかし、この場合、イエス様は彼女に何も言われませんでした。 想像してみてください。もし誰かに何かをお願いをしたときに、相手が一言も言わなかったらどのように感じるのでしょうか。しかし、カナンの女が粘り強く続けてイエス様について行くと、イエス様は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えられました。それにもかかわらず、彼女はあきらめなかったので、イエス様は「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と最も厳しい言葉を言われました。非常に困っているこの女は、自分のためではく、自分の娘のために癒しを求め、信仰をもって、イエス様に「主よ、どうかお助けください」と言います。そして、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言う素晴らしい言葉が女の口から出てきます。この時点でイエス様は、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言われます。

 この福音箇所が気になるのはなぜでしょうか? イエス様は罪のないキリストですが、彼はかなり不機嫌そうで、この女を犬に比べます。この物語をそのまま読んで解釈すると、イエス様を救い主ではなく罪人にしてしまうことになり、罪のない神の御子が罪人であることはあり得ません。それ故、私たちはこの物語を新しい方法で読むべきだと思います。それはイスラエルと他の国々との関係に関するものです。イスラエルは神に選ばれた特別な民なのです。 しかし、それは他の国々が暗闇の中にあるという意味ではありません。イスラエルは自分のためだけではなく、他の国々のために選ばれました。イスラエルには神殿、律法、契約、預言があります。これらすべての目的は、イスラエル民が神の思いと心に従って聖なる民として形成されるためです。 神がイスラエルを選ばれたのは、イスラエル民がすべての国々を創造主なる神のもとに導くためでした。

 1974年のジョン・レノンの「ウォールズ・アンド・ブリッジズ (壁と橋)」という古いアルバムがあります。誰もが壁と橋を必要としている。壁は何をするのでしょうか?壁は何かを区別します。壁には含まれるものあるし、除外されるものもあります。何かの周りに壁を作るということは、「それがそのもののアイデンティティである」ということを意味します。イスラエルの周りに壁があったでしょうか?そうです、旧約聖書の律法、慣習と神殿の規定です。それはイスラエルの特定のアイデンティティを表すための目的としていました。イスラエルは他の国々のようになるべきではありませんでした。もし他の国々と同じになってしまうと、誠実さを失い、より広い世界に何ももたらすことができなくなるからです。もしエルサレムの壁が破壊され、偽りの崇拝と悪い道徳的習慣を持った他の文化が入ってきたとしたら、イスラエルは神から受けた命と魂を失うことになるでしょう。そして、もしイスラエルが自分の魂を失ったら、全世界の救いの希望は失われるでしょう。したがって、イスラエルには壁が必要であり、アイデンティティも必要でした。

 福音書では、カナンの女が壁際にいるかのように、イエス様に命を求めます。この物語の最後に、最初は壁の性質を強調していたイエス様が今度は橋を架けます。 この女は、イスラエルの美しさと誠実さを感じ、命を求める世界のすべての国々を代表しています。彼女の信仰は彼女の側からの橋となり、イエス様の憐れみは向こう側からの橋となります。そして今、イスラエルの恵みと命の一部が、より広い世界へと広がります。だからこそ、彼女はキリストの橋を通して命と恵みを受けとる諸国の教会の象徴になるわけです。

 最後に、私自身の人生について考えたいと思います。カトリックの家庭に生まれた私は、どれほど神の恵みを受けたでしょうか?敬虔なカトリック信者である両親は、私を養成のためにカトリック学校に通わせ、毎週日曜日にはミサに行かせてくれました。もし私の人生にキリスト信者というアイデンティティのような壁がなかったら、私はキリストを人々に与えられなかったでしょう。

 皆さんは「壁を築く人」ですか、それとも「橋をかける人」ですか? リベラル派(自由主義者)はより広い世界に目を向け、橋渡しをすることに専念する傾向があります。しかし、橋をかける前に壁のようなものがないと役に立ちません。なぜなら、より広い世界になろうとすると、自分のアイデンティティを失う危険があるからです。あるいは、コンサバティブ(保守派)で、カトリック習慣や文化を壁として固執し、教会の高い壁の後ろに身をかがめて防御するなら、最終的にその美しい共同体からより広い世界への橋を架けるという教会の使命を果たさなくなります。壁も橋もイスラエルを宣教者として定義されており、それが教会の本来の性質になっています。

2023年8月4日金曜日

ジョンソン神父(OFMcap)の年間第17主日の説教

 賢明で識別力のある心

 今日の第一朗読は列王記上からです。それはダビデとバテシバの息子ソロモンに関するものです。ソロモン王は神殿を築いたイスラエルの偉大な王でした。今日の箇所は、ソロモンが王権を始めた時の場面です。その時、彼は青年でした。彼は経験が浅く、おそらく誰でも初めて新しい仕事を始めるとき、あらゆる種類の自信喪失に悩まされるでしょう。
 主はソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われました。
 主が私たち一人ひとりにも同じ質問をされると想像しましょう。 実際、それは素晴らしい霊操だと思います。
 もし主は今あなたに現れてこう言われたとしたら、「何でも願いなさい。与えます。」その時、皆さんは何と答えるでしょうか? その質問に対する答えは私たちの魂の状態によって決まると思います。
 聖トマス・アクィナスが十字架の前で祈っていました。その時、主の声が聞こえます:「トマス、あなたは私のことを良く書いてくれました。ご褒美に何を求めますか?」 それで、聖トマス・アクィナスは「Non nise te, Domine」と答えました。これは「主よ、あなた以外の何ものを求めません」という意味です。もし主が私たちに質問されるなら、それが正しい答えです。
 ソロモンの答えを考えましょう。主が「あなたは何を求めますか?」と尋ねられたとき、ソロモンは「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と答えます。ソロモンは自分の人生と仕事を神の視点から見ようと求めています。彼は神の視点から世界を見たいと望んでいます。彼は神の思いと心をもって民を支配できるようになることを望んでいます。

 神はソロモンの答えに喜ばれました。そして神様はソロモンに求めたものを与えようと約束されました。神は彼をこれまで生きた中で最も賢い人にしてくださるでしょう。ソロモンが裕福な人になったとしても、神から与えられた知恵に満ちていたので、自分が所有する富をどのように使えばいいかを知っているでしょう。たとえ彼が強力な王であり、もの凄く権力を持つようになったとしても、神からの知恵があれば、彼はその権力をどのように使うべきかを知るでしょう。神の知恵があれば、権力を乱用することはありません。彼はその力を自分の目的のために使わないでしょう。神からの知恵がなければ、神の視点から世界を見ることができなければ、富や権力などをどう扱うべきかわかりません。もし神である主が共におられないなら、すべての世俗的なものが自分に襲いかかり、自分を滅ぼすでしょう。それは霊的な真実です。
 さあ、考えてみましょう。若きソロモン王にとって誘惑は大きかったに違いありません。若きソロモン王が、「私を史上最強の人間にしてください。すべての敵に対して勝利を与えてください」と言ったとしたら。神の知恵なしに、彼が持つ権力はどうなるでしょうか?権力が彼を追い越し、彼を滅ぼすでしょう。「私に何を求めたいのですか」とイエス様の声を聞くと、皆さんは答えを知っていると思います。お金や一番大きな家やスポーツカーを求めるのではなく、イエス様に聖霊の賜物を求めましょう。
 福音書の中でイエス様は、天の国は畑に隠された宝のようなものだと言われました。誰かがその宝を見つけると、自分の持ち物をすっかり売り払って、その畑を買います。隠された宝物は何ですか?それは識別力のある知恵の心です。それは私たちの内に生きておられるキリストに他なりません。なぜなら、その宝がなければ、私たちは霊的な生活に迷ってしまうからです。高価な真珠も私たちの中におられるキリストのことです。高価な真珠があったのに、私たちはそれを手に入れなかった。また、私たちは間違った場所で宝を探しているので、宝を手に入れなかった。宝と高価な真珠を見逃さないようにしましょう。見つけたら、一生幸せになれるでしょう。


 A wise and Discerning Heart

  This week I want to look at the first reading, which is from the first book of Kings. And it has to do with Solomon, the son of David and Bathsheba. He was the great Israelite king who built the temple. But the passage for this Sunday puts us right at the beginning of Solomon's kingly career. So, he's a young man. He is inexperienced, beset by all kinds of self-doubt, most likely, as anyone would be beginning a position like that.
  The Lord appears to Solomon in a dream. “Ask something of me and I will give it to you.” It’s actually a lovely spiritual exercise to imagine the Lord asking you the same question. So, the Lord appeared to you right now and said: “I will give you whatever you ask.” What would you say? How you answer that question actually will tell you a lot about the state of your soul.
  When St. Thomas Aquinas was praying before crucifix. And the voice comes: Thomas, you've written well of me. What would you have as a reward? And St. Thomas Aquinas’ answer is “Non nise te, Domine.” which means “nothing but you, Lord.” By the way, that's the right answer, if you're ever asked that question.
  Let’s see what was Solomon's answer. When the Lord asked, “What do you want?” Solomon says, “give your servant an understanding heart to judge your people and to distinguish right from wrong.” He's asking to be able to see his life and work from the stand point of God. He is asking to be able to see the world from the perspective of God. He's asking to be able to govern with the mind and the heart of God. Unless you have wisdom of heart, unless you can see the world from God's perspective, you will not know what to do with the things such as money, power, wealth and so on. But if I don't have Christ, all those worldly things will turn on me and destroy me. That is a basic spiritual truth.
  God is so pleased with Solomon’s answer and He promises that He will give it to Solomon. He'll make him the wisest man who was ever lived. Let's say Solomon becomes a wealthy and indeed he was very wealthy. With wisdom he'll know what to do with that wealth. Let's say he becomes powerful and indeed Solomon was very powerful. With wisdom, he'll know what to do with that power. He will not abuse it. He won't use it for his own ends.
  Now turn around. The temptation must have been great for this young man. Suppose young Solomon had said. “Make me the most powerful person ever. Give me victory over all my enemies.” What would he do with that power? That power would turn on him without wisdom. It would destroy him. And we hear the voice of Jesus asking what do you want me to do for you? You know the right answer. You ask for wisdom. You want see the world in the perspective of God. You may have the temptation to ask, I want the biggest house, I want a sports car, I want to go on the best vacations, I want to be famous. But you know what you need to ask for?
  Keeping Solomon in mind; in the Gospel, Jesus says the Kingdom of heaven is like a treasure buried a field. When someone finds it, he sells everything he got and buys that field. What's the hidden treasure? It is a wise and discerning heart. It's nothing but Christ dwelling in you. Because without that treasure, we are lost. The pearl of great price is the wise and discerning heart. That's Christ dwelling within you. But there's the Pearl of great price and we missed it. But we're looking for treasure in all the wrong places. We missed it. But don't miss it. If you find it you will be happy forever.

全国霊的補佐 デソーザ・ジョンソン神父(OFMcap)より  年間第16主日の説教

 毒麦に対して忍耐を持ちなさい。

 今日の福音書には三つのたとえ話があります。麦と毒麦のたとえ、からし種のたとえ、パン種の たとえです。イエス様はこれらのたとえを語られました。今日は最初のたとえ、麦と毒麦のたとえについて話したいと思います。

 ある人が自分の畑に良い種を蒔いたのに、敵がやって来て麦の間に毒麦を蒔きました。それで、麦と毒麦が一緒に成長し始めます。 僕 たちが主人に言いました。毒麦を抜き集めておきましょうか? しかし、主人は言いました。「いいえ、毒麦を抜くとき、麦も一緒に抜くかもしれない。」

 この物語は私たちの霊的経験に関して本当に根本的なことを語っています。ある種の善は、ある種の悪と組み合わされなければ存在しません。そうです、ある種の善は、ある種の困難や抵抗、さらには悪がなければ存在しません。

 たとえば、幼稚園の初日に幼稚園へ行く小さな子供のことを考えてください。子どもは最初の数 日間、大きな不安や困難を経験するかもしれません。自分を快適に感じさせるものすべてから遠ざかってしまいます。そして、知らない人々と共に全く新しい環境に強制的に入られることになります。そ れはどれほど辛いでしょうか?あるいは、大学の入学初日を迎える 18 歳の若者のことを考えてみ ましょう。そしてここも、彼は自分の世界、つまり家族、友人、快適な環境を離れ、まったく異質な環境 に置かれています。初めて仕事に就いた若い女性のことを考えてください。彼女は学位を取得しており、心の準備ができており、自信を持っています。しかし今、その日が来て、彼女は仕事の初日に出発しなければなりません。そして、彼女がこの新しい世界に足を踏み入れるとき、大きな緊張、不安、恐怖が生じる可能性があります。したがって、これら三つの場合すべてにおいて、人生におけるより深い 成長、経験、そして喜びは困難なしには不可能です。(私も来日した時同じように感じました)

 長年にわたって慢性疾患と闘ってきた人のことを考えてください。私はこのような苦しみを経験している人をたくさん知っています。多くの人は次のような質問をすることかもしれません。病気がなかったら、その人は忍耐力、勇気、共感力を身につけることができたでしょうか? 忍耐、勇気、信仰、粘り強く祈ることなどの多くの美徳は、その人がひどい病気と闘っていなければ得られなかったものです。

 否が応でも、麦と毒麦は一緒に成長します。毒麦を引き抜くことが常に正しい答えであるとは限りません。
 神が常に私たちにあわれみを示してくださることを忘れないようにしましょう。神はいつくしみ深く忍耐強いので、善(麦)が成長するために悪(毒麦)の存在をゆるします。神は悪を善に変えることができるので、悪の存在をゆるします。

  Be patience with the weeds.

There are three parables in today’s Gospel. The parable of the wheat and the weeds, the parable of the mustard seed, the parable of the Leaven. Jesus told these parables. I am going to speak about the first parable, that is the parable of the wheat and the weeds.

A man who sowed good seed in his field and then an enemy came and sowed weeds among the wheat. So, the wheat and the weeds begin to grow side by side. Slaves said to the planter. Shall we pull up the weeds? But he replies, no. If you pull up the weeds, you might uproot the wheat along with them.

This speaks something really fundamental in our spiritual experience. Some forms of good simply would not exist unless they were paired with certain types of evil. Yes, certain forms of good would not exist without certain forms of struggle or resistance or even wickedness.

For examples, think of a little kid heading off for his first day of school. The child may experience the enormous anxiety, difficulty in the initial days. You’re wrenched away from everything that makes you feel comfortable. And you're forced into this alien environment with people you don't know. How traumatic is that? Or think of an 18-year-old young man who is heading off for his first day of college. And same thing now at a higher pitch because you're more plugged in. You're leaving your whole world behind: your family, your friends and your comfortable environment and you're placed in this totally alien environment. Think of a young woman setting out for a first day of work. She has got her degree and she's full of confidence in preparation. But now the day has come and she has got to set out for the first day of work and there could be enormous nervousness, anxiety, tension as she enters this new world. So, in all three cases, deeper maturity, experience and ultimately joy would simply not be possible apart from suffering.

Think of somebody who has struggled mightily against the chronic disease for many years. I know many people who are going through these physical difficulties. In many cases you could ask the question: would that person have grown in patience, courage, empathy, without the illness? Lots of virtues such as patience, courage, faith, persistence in prayer etc., wouldn't have come unless the person is struggling against that illness. Like it or not, weeds and wheat grow up together. Tearing up the weeds isn't always the right answer.

God has shown us His mercy. God is so merciful and patient that He allows evil (weeds) to exist in order that what is good (wheat) may grow. He allows evil to exist also because He can turn it into good.

2023年5月8日月曜日

日本在世フランシスコ会全国兄弟会の第14期評議員が選出されました

2023年5月5日~6日、名古屋南山学園研修センターで開催。

 選挙のための全国会議が、国際兄弟会議長 朴兄(韓国)と国際兄弟会霊的補佐 ステファン神父OFM(conv)(ルーマニア)を迎え、第14期の全国評議員が選ばれた。
 本来ならば2021年に選挙が行われるはずであったが、新型コロナの感染防止のために2年間の延期ととなっていた。やっと感染収束がみられるようになったことで開催され、5日に全国会議が、6日に選挙が行われた。
 選挙の順序は、会長、副会長、養成責任者、事務長、財務担当者、評議員2名、会計監査の順で行われた。会員の高齢化もあって選出は難航し、会長が4回目の、副会長が3回目の、財務担当者が2回目の、評議員も2回目の投票で選出された。難航はしたものの主のはからいがあって新会長には若さ溢れる藤田重和さん(三軒茶屋兄弟会)が選ばれ、我慢の2年間は大きな喜びにかわった。


  新しく選ばれた
  ・常任評議員(7名)

    会長:藤田重和兄(南関東地区)
    副会長:上田倭子姉(南関東地区)
    事務長:服部恭子姉(関西地区)
    養成責任者:竹田文彦兄(関西地区)
    財務担当者:片岡明俊兄(西九州地区)
    評議員:秦久美子姉(東九州地区)
        深堀範人兄(西九州地区)

  ・国際評議員:竹田文彦兄、[副]上田倭子姉

  ・会計監査(2名):寺田康子姉(関西)、一戸茂子姉(栃木)

                 決意表明する7名の新評議員


  国際からの議長 朴兄(左端)と霊的補佐 ステファン神父(前列左から2番目)と全国霊的補佐と一緒に